深い闇が待っているアルブレヒト城
ヨーロッパ陶磁器発祥の地である。

 ヨーロッパ磁器の歴史はマイセンそのものである。時は17世紀、東インド会社を通して招来する中国や日本の磁器は、多くの小国家に分裂していたドイツにあっても、各国王や貴族たちの心を強く誘っていた。

  そこで、ある二人の男が登場する。一人は、ツヴィンガー宮殿の主であり〃スタルケ(強精王)〃の異名をとる、ザクセン侯国のアウグスト大王。そしてもう一人は、アルブレヒト城で呑んだくれていた男、ヨハン・フリードリッヒ・ベットガーだ。ベットガーは、いわゆる錬金術師として、そこそこに名を売っていた。といっても、錬金術師は詐欺師も同然の職業。石の塊を金塊にしてしまったり、不老長寿薬や媚薬の調合をしたり。スポンサーをみつけては遁走する輩が跋扈した時代だったのだ。1682年生まれのベットガーもその一人で、少年時代からベルリンで錬金術なるものを学んでいた。ある時彼は、こんな売り込みをはじめる。〃伝説でしかない謎のギリシャ修道僧ラスカリスから手に入れたチンキ剤で、黄金を作る〃というものである。

  当時ベルリン周辺を支配していたプロイセン王フリードリッヒにもとりつくが、結局は失敗。ところが、その情報にひっかかり、彼を雇うことにした人物がいる。それが、財政困難に苦しんでいたザクセンのアウグスト大王である。雇われたベットガーは、当然〃幻のチンキ剤〃の空しい研究を繰り返していたが・・・。

  彼は並の詐欺師ではなかったのだ。当時は、東洋から輸入される皿が、屈強の兵士と交換される時代であった。そこで錬金術師ベットガーは、アウグスト大王に建白書を送った。「金塊ではなく、それに代わる〃良質の白い磁器〃を造る」と。

 ヨーロッパ磁器史のはじまりである。若きベットガーは、白い磁肌を求めて研究を繰り返した。白い素地、白い素地、と実験場で願った。そして1708年1月15日、彼はとうとう、窯からでてきた磁片7種のうち3種が、白く、透明感に溢れていたのを発見。翌年1709年にはヨーロッパ初の 白磁焼成に成功した。
 1710年1月23日、アウグスト大王の布告により、ドレスデンに磁器工房を設立。同年6月6日、この工房をマイセンのアルブレヒト城内に移した。事実上ヨーロッパ初の白色磁器を完成させたアウグスト大王は、さらなる質の向上と、技法流失の防止を求めた。その欲望を実現するために、まず、ベットガーの軟禁を始めたのだった。 
 「彼は37才の若さで死んだのです。アルコールに溺れる毎日でしたからね」彼を尊敬して止まないというアルブレヒト博物館の館長が、フッーと靄のような息を吐いた。
 古色蒼然とした石造りの家々に灯がともる。焚火あとの薄い煙りがまだ残っており、やがて柔らかな霞となって消えていった───
  現在のマイセン窯は、1865年に建てられた重厚な煉瓦造りである。数年前に訪れた時、椈が金色に染まっていたのを思い出す。あのワルタン・シーネエルおじさんは、今も柿右衛門の写しを描いているのだろうか。古伊万里や柿右衛門と相対すること45年。彼は、長老格の絵付師である。この原稿を書いている一週間後、僕はドレスデンに滞在している。とうぜんマイセンを訪ねる。ワルタン翁はとっくに引退したと風の便りに聞いているが、僕のなかでは、彼の言葉が今も生きつづけている。

 「インドの花や柿右衛門を徹底的に写してきたよ。写しは模倣であるが、不思議と、写しを徹すると自分が見えてくるんだ。ある清々しい気持ちをともなってね。ワシは、中途半端な創造より、模倣のなかに自分を見つけたよ」きよらかな叙情さえあたえ、いつも淡々と幸福感をたたえているワルタン翁が、柔らかい笑みを刻んでいたのを思い出す。
 さて、話を戻すとしよう。磁器の発明に貢献したのは確かにベットガーであったが、もうひとりの登場人物を忘れてはならない。陶画家ヨハン・グレゴール・ヘロルトである。マイセン窯が現在の地位を獲得したのは、彼の働きによるところが大きい。大航海貿易時代であった当時のヨーロッパでは、シナ風の発想、あるいは、シナ風の表現に源泉を求めた文芸・芸術上の傾向があった。それはシノワズリという様式を創り上げ、ロココ文化にも大きな影響を与えた。

  ヘロルトもその流行りをいち早く作品化していた。その東洋趣味のきわめつけは、なんといっても、ベルリンのシャルロッテンブルグ宮殿(18世紀初めにフリードリッヒ一世がシャルロッテン夫人のために造営した)にある「磁器の間」だ。鑑賞する前に覚えた強烈なめまい。染付け、色絵、白磁の大・中・小皿、壷、人形・・・が、隙間なく壁面を埋めている。それは鑑賞する者にも隙を与えてくれない。驚嘆の連続であった。

 本来、手にとり、あるいは唇にあて、その肌触りを楽しみ愛でるものが、ここではまるで違うのだ。それにしても、この常軌を逸したものは、感覚の違いというより宇宙観の相違ではないだろうか。僕らの先人の遺風は、一つの茶碗の裡に宇宙を探しだしたが、彼らは違うらしい。
 
  同じシノワズリ趣味でも、さすがにフランスはここまで狂いはしなかった。しかしゲルマン民族はやってしまったのだ。これがドイツ・バロックスタイルの「装飾集合体」というのだそうだ。
 王侯貴族は、権勢のために、金銀を上回る東洋の陶磁器を蒐集したが、ヘロルトの東洋趣味は、ヨーロッパ陶磁史に残る様式を残した。

  彼の柿右衛門や中国磁器への情熱は、一国一城の権力などものの数としなかったのだ。ひとつの芸道の鬼と化し、美の専制者となったヘロルトという絵付師は、度を超えた純粋主義者であり完全主義者であったのだろう。
  菊や牡丹など東洋的主題でつくられた「インドの花」シリーズ(当時のヨーロッパでは中国・日本・東南アジアの区別がなく、東洋全域ををインドと表現した)は、今でもつくられているマイセン窯のロングセラーだ。柿右衛門様式や古伊万里様式の絵付もつづけられている。代表的なのは「黄金の虎に竹」「柴垣に松竹梅」。そして「牡丹草花文」「鳳凰の図」「龍の絵」「うずらに粟の絵」がこれに次ぐ。いずれもオリジナルはヘロルトの写した有田の色絵である。


夕陽を浴びた美しいマイセン柿右衛門手に惚れ惚れする。

 「マイセンは柿右衛門を写しましたが、マイセンは全ヨーロッパの国々で写されました。 フランスのサン・クルー、ルーアン、シャンティーイ、そしてイギリスのウースター、チェルシーなどでは、マイセンを上回る柿右衛門様式があります」と、かつてマイセン窯の総裁だったインハルト・フィヒテ氏。

  フィヒテ氏は東西の壁が崩壊する6ヶ月前に西側に亡命したが、驚くことに彼とはヘキスト窯で再会した。彼は現在ヘキスト窯の社長である。「ヨーロッパは、ペルシャの陶器、ベニスの工芸技術、マヨリカ焼きの技法などでは、赤の発色にさほど驚きませんでした。でも柿右衛門の赤は違いました。その背景、つまり磁肌のひきしまった白とのバランス。そして、余白を生かした構図が絶妙でした。

  ヘロルトやその弟子たち、ハインツ、ヘウアー、ハロルド、クリンガーらも、柿右衛門や伊万里という名前は知らなかったでしょうが、当時の作品は、すべてを語っていたのでしょう」とフィヒテ氏は柿右衛門を絶賛した。

 1  憧憬の的だった柿右衛門。

 2 シャンティイ窯の柿右衛門写し

フィヒテ氏の話にもでてきたフランスのルーアンでは、ヨーロッパ初の白色磁器を焼成したマイセンに先んじて、ルイ・ポトラが磁器を完成させたと伝えられる。しかし、それはカオリン磁土を使ったものでなく、珪砂・石膏・ソーダを溶かし、固まったものを粉末状にし、さらに石灰と粘土を加えて磁土にしたもの。 いわゆる軟質磁器(フリット磁器)であり、東洋の磁器に比べると強靭性がなく、その白さにおいても明らかに見劣りがあった。

  マイセンの影響を受けたルーアンも、柿右衛門と出会ったのは当然であろう。さらにフランスには、セーブル、リモージュという、マイセンと世界を二分した窯がある。その先駆的窯としてサン・クルーがあった。先に、フランス最初の軟質磁器はルーアン窯と書いたが、もうひとつの説がサン・クルー窯である。ここでは18世紀の半ばごろから柿右衛門の写しが盛んになり、なかには、マイセンを超えた素晴らしい出来栄えの作品がいくつも残っている。

  サン・クルー窯の技法はやがてフランス各地に広まっていった。また、ブルボン家の領地シャンティーイにも磁器窯があった。1725年に開かれたそのシャンティーイ窯には、マイセンから、伊万里の絵付師として名高いレーベンフィンクが迎えられた。彼はそこで、八角皿や花縁皿に、柿右衛門様式の「鵠文様」「生垣に栗鼠」「岩牡丹」などを絵付けした。

  その後フランス革命の影響を受けた窯は、1792年にイギリス人の手に渡り、1800年にはついに閉鎖されたのだが、そのおかげで柿右衛門の写しはイギリス全土に伝播した。ウースター、チェルシーにも、柿右衛門や古伊万里様式が定着することとなったのである。

 

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