第六話   ヴィクトリア&アルバート美術館

GREAT BRITAIN

 

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ヴェルサイユ宮殿で使われていた
「ポンパドールの薔薇」

 「ロンドンに飽きた時、その人は人生に飽きたのだ」と言った人がいたが、僕は飽きるほどロンドンとは付き合ったことはない。  が、いくら付き合っても飽きることはない、いや、飽きるはずがない美術館がロンドンにはたくさんある。

 

 美術品は国家あるいは特定の社会の威信を賭けたものでなければならないとする歴史は、ヨーロッパだけでほなく日本でも同じだろう。
 日本人が名画を競り落とすと、世界はジャパンマネーと騒ぐが、かつての世界もその昔、おびただしい名作を奪い合い、競り落としていたではないか。日本の行為のみを騒ぐのはずるい話だ。なにしろ大英博物館には、世界の宝物がたくさんあるのだから。

「美術館とは、さまざまな方法により、文化的価値ある一連の諸要索を保存、研究、価値あらしめ、とくに、多くのひとびとのよろこびと教育のために展示する目的をもって管理される恒久的施設である」 これは、 一九四九年に発表されたICDM(国際美術館会議)の美術館像である。この定義を信じる限りでは、美術品も少しは喜ぶかもしれない。

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ウイリアム・モリスの家具が展示されていた

 

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(左)ベルナール・パリッシーの傑作
(右)銀製の旅行用化粧箱。ヴィクトリア朝の優雅な香りが漂う

 

 そんな思いでサウス・ケンジントンにあるヴィクトリア&アルバート美術館に赴いた。
 ここの蒐集は、中世から近世までのヨーロッパの装飾美術を中心に、東洋を含めて広範囲であるが、陶磁器にいたってはおそらくその数は仕界一を誇るだろう。
 その歴史は、一八五二年、マルボロー・ハウスに創設された装飾美術館が母体になっており、現在の地には一八五七年にサウス・ケンジントン博物館として発展した。

 

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(左)ヴィクトリアン・ジュエリーはアンティーク市場では高値の華
(右)工芸美術をもっとも愛したアルバート公

 
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中年の男がじっくり鑑賞していた

 
 一八九九年にはウェッブ卿によってさらなる改築が進められ、ヴィクトリア女王の亡夫アルバート公が主導していた「産業と芸術の一致」の遺志を継いで、現在の呼称に改められた。
 このアルバート公の遺志や英国の試みは、一八六三年にウィーン、一八六七年にミュンヘンとベルリン、一八七四年にはハンブルクに影響を与え、ぞくぞくと美術館が建設されていったのである。

 

va2 ロココの華であったセーブルの名品

 さて現在の美術館だが、「日の没することなし」の勢いをそこで実感したのは、やはり陶磁室であった。一三七室には英国陶磁器がピッシリと展示されており、文字通りに所狭し。
 その膨大な数の中で目をひくのは、やはりウェッジウッドのジャスパー・ウェアであった。

 考案者のジョサイア・ウェッジウッドは、天然痘を患った結果片足を失い、ハンディを背負っていたが、白磁器をもって産業革命を先取りした人物だ。その彼の偉業はスマイルズ著、中村正直訳の『西国立志編』として明治四年に日本にも替市ている。
 「英国の乞地烏徳の幼き時、疾を得て不具と成しが其園の陶器の粗なるを憂ひ敢年工夫して精巧の品を造りだし園の大益を成せり」と。

 

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1852年に開設された装飾美術館を母体として出発。現在は
陶磁器博物館と称されるほど名器の蒐集物は世界一を誇る

 

 閉館時間も追り、急ぎ足で見たのだったが、一つだけヴィクトリア&アルバート美術館に苦言を呈したい。
 それはわが濱田庄司翁の扱いが、あまりにもお粗末であったことだ。ガラス張りの陳列ケースに収められているにもかかわらず、埃が被っていたのはどういうことだろう。
 もちろん、濱田翁は粗末な扱いなど気にもしないだろうが明日また来よう。この美術館が飽きる日はいつなのだろうか。

 
Kazarikei

 


merci

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