ルイ14世の食卓

 僕は今、画面にこまかなひび割れがはいった一枚の絵を見ている。男は綾織りのテーブルクロスで被われた食卓の向こう側に、ただ一人金張りの肱掛け椅子に座っている。食卓には当代きっての金銀細工師ニコラ.ドロネー作の銀製の皿台にのった銀皿が所せまし、と。

  どうやら今宵、この食卓には六四皿を数える料理が運ばれるらしい。スープ四皿、雉一羽、岩鷓鴣一羽、サラダ大皿一杯、家禽の臓物とニンニクで煮た羊の股肉、オーブン焼きのハムの大切れ二枚、オレンジ入りのアーモンド菓子、国王専用の果樹園でとれた新鮮な果物、さらにジャムを数皿、どうやら彼は一回の食事でこれらを平らげたらしい。

  そう、このおそろしく欲張りで健啖の人こそが太陽王で名を馳せ、ヴェルサイユ宮殿に君臨したルイ一四世(在位一六四三 一七一五)であった。

 王たるもの、世のすべてを胃袋に収めさらに排出しなければ気がすまないのだろうが、ここで見おとせないのが王の器。器といってもその政治手腕や人格ではなく、それは美酒美食の宴を燦然と飾った華麗なる食卓に鎮座していた。狂ったように華咲いたルイ王朝の栄華は、神聖化された「王家の食卓の流儀」として、近隣諸国の君主たちの模範となったという。

  そこは、眩耀の世界だった。ヴェルサイユ宮殿で開催された「ヴェルサイユとヨーロッパ王室の食卓展」は、まさに王家の食卓芸術史。シャンパンのモエ・エ・シャンドン社の支援で復元された「アフリカとクリミアの間」は十の会場に分けられ、ルイ一四世からナポレオン三世(一七五二 一七七〇)までの食卓が、時を越えて再現されていた。展覧会のプロローグとなるのが、高さ十メートルに及ぶ「光の柱」の復元。

  上の写真は、フランス、コンデ地方の征服を記念し、宮殿の内庭で一六七四年に催された祝宴のメディアノチエ「真夜中過ぎの食事」で食卓の中央に飾られた巨大な光のオブジェ。今回の展示は、ほとんどが外国からの借り入れで成り立った。革命時の売却や戦費をまかなうために金銀器などは溶かされてしまい、残念ながら食卓の王者フランスに現存するのは僅かばかりであった。

  ルイ一四世の公式食卓セット、ルイ一五世、ルイ一六世の氷入れ碗は英国王室所有、ルイ一五世からデンマーク王クリスチャン七世へのセーブル窯の贈答品セットなどは、現在もなおデンマーク王室で実際に使用されているという。

 

金銀で埋めつくされた食卓

 目も眩いコレクションは、一八世紀初頭の金工師であったフランソワ・トマ・ ジェルマン作の金銀の器群。ポルトガル王、ジョゼフ二世のために献上した四八式、三〇七点の銀器は目を見張るばかりだ。

  そもそも金銀細工の歴史は、はるか前三世紀のメソポタミアまで遡るが、中世のヨーロッパでは古代より引き継いだ金工技術をもとに、教会の祭具などに利用されていた。
  ルネッサンス期には、金工は世俗的な性格を強め、高度な技術を駆使した華麗な傑作が数多く生まれたが、その筆頭にあげられるのが、一六世紀後半に活躍したフィレンツェ生まれのチェルニーニ。

  彼はフランスへも旅行し、その技術は「フランソワ一世(在位一五一五 一五四七)の塩容れ 一五四〇年作」として初めてフランス王家の食卓を飾った。

その技術は先のニコラ・ドロネー、フランソワ・トマ・ジェルマン、ジャック・ロエチエらに引き継がれ、ナポレオン三世時代に活躍し現在も「卓上の芸術」と呼ばれる「クリストフル」へと発展していった。

  ルイ一四世の食卓は、金銀の食器で埋めつくされ贅を極めていたが、王といえどもその出費もかなりのものだった。
 

ロココ文化の息吹


 
  折しも英仏百年戦争、スペイン継承戦争が重なり、財政も赤字をかかえ王は一切の食器を溶解にふし資金集めに奔走、同じくルイ一五世もオーストリア継承戦争、七年戦争で王の食器はまたも軍用資金として消滅してしまった。だが芸術的創造力に長けたルイ王朝の食卓は、新たな器を手中に収めた。

  それは当時のヨーロッパにあっては、金銀を上回る価値があり、東洋からきた白い肌をもった硬質磁器であった。スペインでは一三世紀ころからもろい陶器が作られ、庶民や王家も食器として愛用していたが、薄く透き通るような磁器は王家にとっても夢のまた夢であった。

一七〇九年、ドイツのマイセンでヨーロッパ待望の磁器焼成がアウグスト強精王(子供が二〇〇人とも四〇〇人ともいたといわれる)の肝入りで成功したが、その秘法はウィーンを経て一七二五年、パリから北へ五〇キロのシャンティーイに伝わった。

  この窯は当時から柿右衛門様式の磁器を焼成していたが、やがてその技術はヴァンセンヌ窯(一七三八年創設)と伝播し、現在のヴェルサイユに近いセーブルに移ったのは一七五六年。それは王立窯としての再出発であったが、仕掛人はルイ一五世の寵妾で、愛陶家のポンパドール夫人であった。

  当時のフランスは厳格を重んじるバロック様式がすでに終わり、人々が「誰にも気兼ねしない悦び」、つまり「不道徳」に人間性を求めたロココ文化が成熟に向かっていた時代。芸術家たちのパトロンでもあったポンパドール夫人は彫刻家のファルコネや画家のブーシェらを招き、国運をかけて磁器制作にあたらせた。

 展示会場では各国に散ったセーブルの名器が数多くあったが、特に目を引いたのが第八会場を占めるロシアのエカテリーナ二世が一七七七年、セーブル窯に注文した七四四点の食器群。

 古代ギリシャ様式の簡素厳正なシェイプに、トルコブルーと金彩で絵付けされ、器の中央には皇后の頭文字が花文字で描かれている。ここで注目したいのが器の様式だが、つまりこの時代、ヨーロッパ諸国はこぞって食器をふくめロココ様式になびいたのだが、フランスのサロン文化を積極的に模倣していたエカテリーナ二世が、なぜ、ロココとは対称的なギリシャ様式を選んだのだろう。 
 
 史実としては、フランス王家の贈答リストから外されたことに憤慨し、従来のセーブルにはない、当時の流行に挑戦した女帝のプライドであったというが……。話が飛ぶが、ロシアのサンクト・ペテルブルグにあるロマノフ王朝の栄華を極めたエルミタージュ美術館のことを思い出した。

 館内に輝くエカテリーナ二世に愛された膨大な食器群は、フランス王家を意識した華麗なる輝きを放っていたが、ひとつだけ不足している名品に気づいた。それは繊細優美と表現すべきデンマークの名窯ロイヤル・コペンハーゲンがエカテリーナ二世への贈物として制作した───エカテリーナ二世の死によって製作は中断され、完成品の一八〇〇点はロシアに送られることはなかった───最高傑作のディナーウェア、フローラ ダニカがエルミタージュには欠けていた。
 
 何故、世界に誇るエルミタージュ美術館にはフローラ ダニカの一品すら蒐集されなかったのだろう。 旅まかせに、不遜にもある推理をしてみた。エカテリーナ二世、そしてロイヤル・コペンハーゲンのスポンサーだったジュリアン・マリー皇太后は、ともにドイツ人であり同世代の誉れ高い女傑であった。歴史の襞に隠されたドイツ女の確執−−つまり、フローラ ダニカはロシアではなく、デンマークに花咲き、散るものでなければいけなかったのだろうか。

 
王たちの途方もない虚栄

  食器は偉大だ。ポンンパドール夫人、エカテリーナ二世、ジュリアン・マリー皇太后が歴史の舞台裏で三つ巴の激しい女の戦いを演じていたと読めたが如何だろうか……。
  革命はパリの灯を消したが、ナポレオン一世(一八〇四〜 一八一四)はセーブル窯の炎を消しはしなかった。革命で破壊されたセーブル窯は装いも新たに「国立セーブル磁器製作所」として再建され、ナポレオン好みの金彩豊かな装飾を施した、精緻を極めた器が製作されつづけたのである。

  その様式は偶然であろうが、皮肉にもエカテリーナ二世が注文した古代ギリシャの装飾文様を好んで使い、ロココ美術への反動として、均斎、調和、簡素を基調とする古典復古であった。いわゆる「新古典主義」の時代思潮で、この傾向は一八三〇年代までつづいたが、フランスでは「アンピール様式(アンピールとは帝国を意味するフランス語で、英語のエンパイヤ。ナポレオンの時代に流行した。)」と呼ばれ、ギリシャ的なものだけではなく、エジプトの装飾様式も混合したものであった。
 
                    第9会場を飾るナポレオン一世からロシアのアレキサンドル一世へ贈られた「エジプト風」はその典型であろう。さて王の絢爛たる食卓ではあったが、食事作法はいかがだろうか。

  フランスでフォークが初めて使われたのは、一六世紀からつづいている鴨料理で有名なレストラン、かの「ラ・トゥール・ダルジャン」という説がある。当時の貴族たちが、みな糊のきいた大きな円形の襞襟の衣服を着たまま食事できるようにと、店主が柄の長いフォークをつくらせたという。

  そのきっかけは一五三三年、アンリ二世の王妃としてフィレンツェのメディチ家から嫁いだカトリーヌであった。フィレンツェでは一四世紀からフォークが使われていたのである。
 
 以後フランスの宮廷ではフォークの使用を取入れたが、それから百年以上たってもルイ一四世は、手で食べる癖を改めなかったらしい。日本では、八世紀の奈良時代から庶民も箸を使用しており、ヴェルサイユのどの部屋にもトイレがなかったことをあわせて思えば、このあたりはこちらのほうがはるかに文明国であったようだ。

  三時間ほど食卓展を眺め、宮殿の外に出た。 
(ほっとした……)燦然と光り輝くヨーロッパの食卓芸術には思わず息も飲んだが、これでもか、これでもかと豪華絢爛の連続は、毎日フランス料理のフルコースを食べるようなもので、満腹感というより疲労感のほうが強い。

  かのマリー・アントワネットが宮殿の過剰な装飾から逃れるように、敷地内に質素な田舎小屋を建てた心情がよく理解できたようだ。器たちにも夢もあろうが、王たちの途方もない見栄も「食卓の流儀」に隠されていた‥‥‥

 

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