とっておきのホテル
第14話




なごみと癒しを司るマダム


静まりかえった午前2時。ラストールの夜は長い。

 印象というものはおもしろい。心理学用語辞典では、対象が人間の精神に与えるすべての効果、とある。10年前に泊まった部屋の細部、客のしぐさや人相までもきのうのことのように思えることがあれば、一週間前に泊まったホテルの名前さえでてこないときもある。それは滞在期間の長さとは必ずしも比例するわけではなく、その逆だってある。車窓の風景は一瞬のうちに変化するが、だからといって印象がないとはいえない。ようは感じ方の資質の問題で、つまるところ対象との相性なのだろう。それは人と人の関係でもおなじだ。一万語の言葉でも印象に残らないものもあれば、木訥とした会話のなかにも感動することだってある。


マダム・セキはまさに女将の風格。

ロビーは静かで簡素。清潔感があふれている。

 パリのマドレーヌ寺院、コンコルド広場にほど近い8区の一角にあるホテル・ラストールで、控えめだが強烈な印象をもった女将、いやマダムに迎えられた。セキさんというサヴォア地方出身の彼女はこのホテルの総支配人で木訥としたその語りは、まさに旅篭の女将であった。第一級のホテルを旅篭といっては失礼だが、マダム・セキの柔らかい物腰は、旅人をなごませるに充分であったのである。
 
  質素に穏やかに装飾されたホール、19世紀に舞い戻ったようなチャーミングなバー、さらにパリのホテルには珍しい図書室などマダム・セキの心遣いがいたるところに溢れている。彼女に案内された最上階のスイートはパリが一望できる部屋だった。「この館は今世紀初頭の建築ですが、室内のコンセプトはリージェンシー風に建築家のフレデリック・メシシュ氏にアレンジを依頼しました。ときどきこのテラスに立ってパリと話すのですよ」と笑みを刻むマダム・セキにいいようのない親しみを覚えたのだ。 「おかみ」とは御上・御内儀・女将と綴るが、フランス語で「おかみ」つまりマダム以外の表現はあるのだろうか。


パリの食通の間で人気上昇中の売れっ子シェフ。

  ホテルとしてオープンしてからまだ四年足らず。宿泊客はヨーロッパ人がほとんど。「イギリス、ドイツからのゲストによく言われるのは、簡素な佇まいです。世界を飛び回るビジネスマンにも同じようなことをいわれます。きっと何かが癒されるのでしょうね」とマダム・セキ。じつはこのホテルは彼女自身なのかも知れない。
 ラストールの魅力はほかにもある。そう、かの厨房の男爵ジョエル・ロブションがスーパーバイザーであるレストランだという。現在も月に何度もラストールのレストランを訪れ、メニューのチェック、さらにルームサービスの味にも目を配っている。
 僕が泊まった部屋は中庭に面しており、明かりが灯った部屋の様子が霞のようにレース越しに映っていた。隣人の部屋を眺めるのは下衆的行為だが、カーテンを締め切っていないのだから…とワイン片手に妄想にふけったラストールの午前零時だった。「おかみ」も許してくれるだろう。


ロプション氏の教えが生かされている。



ASTOR WESTIN DEMEURE HOTELS
11,rue d'Astorg Paris,75008 France
TEL:33-1-53-05-05-05
FAX:33-1-53-05-05-30

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