とっておきのホテル
第13話
ドルダー・グランドホテル



静寂なる時が流れる


山の中腹に優雅に横たわるホテル。

 ゆったりとした乳白色のバスタブに、真珠の光沢を放つ微粒子のバブルが、半透明な小山をいくつもつくっている。金色の蛇目が湯気で滲む。よく観察すると、カエルの卵のようにお行儀よく水滴が並んでおり、それに映り込む向日葵模様の吊りランプが、とても美しい。そう、と身体を沈ませる。耳元でバブルたちの囁きが聞こえそうだ。


円形のレストランの窓越しにチューリヒの町並みが望める。

 適度に冷えたシャンパン一杯、煙草の一服、快く、豪華に思える一瞬である。天井まで伸びる、細長い窓からは、チューリヒ湖を照らす瑠璃色の空が見える。
 ヨーロッパの高級ホテルの楽しみ方はいろいろある。長い歴史を振り返り、オーナーの趣味を調度品のひとつ、ひとつに見つけたり、ミシュランの星を戴いたレストランで、銀の燭台をはさみ食事するのもよい。なかには、チップを払ってはじめて給仕の笑顔に接し、以後、チップ大好き人間になった人もいる。


トスカーニやキッシンジャーなど世界的著名人が食事を楽しんだレストラン。

 僕の楽しみは、バスルームにある。
 そのわけは、一本の映画であり、あの映像はいまだに引きずっている。カトリーヌ・ドヌーブの『恋のマノン』だ。サミー・フレイと一緒に入って背中の洗いっこをしていたのだから。以後、エリザベス・テーラーの『クレオパトラ』、キャロル・ベイカーの『ハーロー』、オードリー・ヘプバーンの『パリで一緒に』等、お風呂がでてくる映画は積極的に鑑賞している。
 一時間は入っていたろうか。隣の部屋がなにやら賑やかである。しかも、あれはバスルームの響き。羨ましい限りだ。『枯葉の街』のミレーユ・ダルクが女友達とお風呂でお喋りしたのを思い出した。
 お風呂談義はさておき、ここは国際金融都市チューリヒ。この都市の歴史は、史料上ではキーウィタース(都市)という呼称で929年に初めて現れる。11世紀初頭には帝国議会も開催されるほどに重要都市になり、1218年には帝国都市となった。1336年ツンフト闘争―同業ギルドによる市政参加要求闘争でその当時、手工業物は「親方>職人>徒弟」という身分序列があり、同業ギルドは親方のみが参加可能であった―に勝利し、手工業者、小商人も市政参加が認められた。以後チューリヒは強力な都市国家を形成していったのである。十六世紀にはツウィングリ(スイス人文主義の中心的存在。1484〜1531)による宗教改革が行われ、新教派の避難民(職人が中心であった)を多数受け入れ、織物業を中心に経済的に発展した。
  現在は金融業を中心とするスイス経済の中枢都市となっているが、その背景はユグノーを含めた新教徒たちの経済発展の伝統であった。

「チューリヒ湖や渓流でとれる魚料理が得意」と胸をはったシェフが武者修行時代を語ってくれた。

 ミレニアムに向けて創業百年を迎えるドルダー・グランドホテルは、高級住宅街を抜けた山の中腹にある。その独特な尖塔をもつ中世風の館は忽然と姿を現した。チューリヒから車で15分ほどの距離だが、喧噪から完全に隔離されたロケーションだ。
「指揮者のトスカーニやキッシンジャーなどがこのロケーションを気に入り、何度も宿泊しております」と背筋を伸ばす総支配人のヘンリーさん。確かにチューリッヒから近いが人影がまばらなこの環境は、泊まり客や食事客以外は近づきがたい場所にある。部屋数は183室(11スイート、24ジュニアスイート)とかなり多いが、バーつづきのサロンなどゆったりしているので、いわゆる大ホテルのイメージは全然ないのも不思議だ。客室にはISDNやアナログポートのモデム用差込があり、PowerBookを持ち歩く僕にとってはすこぶる便利がよい。
 窓越しにチューリッヒ湖と市内を望むロケーションは一等地の証明でもあろう。



 メインダイニングの「ラ・ロトンド」の窓側は優雅な円弧をゆったりと描いており、遠くにチューリヒの町や湖を望むことができる。
 メニューを覗いてみた。
 スイスのワインは、隣接するフランス、ドイツ、イタリアの文化、経済、習慣の影響もあり当然ワイン生産にも影響しているが、雨が多いこともあり、良質のものは期待出来ぬという。料理は質素だ。チューリヒ湖や渓流が近いので、イワナ、マス、カワメンタイの料理の人気があり、とくに、カワメンタイの肝が美味と推薦された。野菜はきのこ類が多く、ヌメリタケ、アミガサタケ、ヒラタケが絶品と、お墨付きを戴いた。
 ホテルの設備として特記したいのが九ホールのゴルフ場。キッシンジャーが南アフリカの政治家と20時間以上もの会談前、このゴルフコースで会談の案を練った、とヘンリーさんがいっていたが、チューリヒ湖を一望しつつベストショットを狙ったのだろうか。
 夏は野外プール、冬はアイススケートリンクとゲストに退屈をさせない施設が揃っているドルダー・グランドホテルだが、僕にとっての魅力は、やはりバスタイム。そこにはゆったりと流れるドルダーの午後があった。

ボーダー

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