淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

大欲と小欲

アナログとデジタルの往復を重視する日々。ここ20年、たしかにデジタル依存症の自覚があったでけに、ぼんやり反省もいていたいたが。

ここに掲載する写真のすべてはデジタルだが、その思いはアナログなのである。(時間の流れが気にとまり虚実のはざまのような写真は、プリントして絵札にし、お守りにしている。)さはさりながら、二律背反を楽しんでいるのが正直なところだろう。バラバラな思いをひとつにする快楽・・・・・うん、「よいことをしながら、わるいことをする」なんかも、いいな。

キルケゴールの「自由すぎるから不安がある。」をタモリは「実存ゼロ」と云った。なるほど。

 

仏教では、この世は「仮」と伝えていると同時に、小欲は棄て大欲を求めよ、と。ま、難題中の難題であるが………。

内外の政治、経済への関心は高いが、まともに接していると胃潰瘍になりそうだ。その逃避先が「妄想」なのである。そんな妄想の裡に穢れなき「大欲」を体得できそうな気がするが、いかがだろうか。

 

武漢菌が世界に広まった時、トランプさんが発した「6フィート」の写真を引っ張りだした。聞き慣れない「ソーシャル ディスタンス」が日本語のようになったのが昨日のようだ。

 

令和六年十一月十日

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詩的なふるえ

浅間北麓の仲間が、近所のお寺でコンサートを開く。お茶で著名なお寺で、金閣寺ご住職のお点前をはじめ、すべてのお茶室は撮影しているが、「牡丹の間」は別格なのである。
このお茶室は、麻布にあった鍋島藩の屋敷にあったのを明治に移築したのだが、鍋島藩といえば「葉隠」なのある。学生時代に読んだ熟睡してたであろう三島由紀夫の「葉隠入門」を引っ張りだした。読み返しても、著者、山本常朝の逆説が、じつに普遍的な意志で溢れていたのだ。また横尾忠則のイラストが三島由紀夫の超逆説的超訳を補完していたのには、笑ったりもした。

宮本武蔵の「五輪書」にニューヨークのビジネスマンたちが「勝つ秘策」を学んだと米国の社会学者エズラ・ボーゲルのベストセラー「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(1979年)に書かれていたが、どっこい「HAGAKURE」は、今も高い評価がある。カスタマーレビューはすべて英語なので、翻訳アプリも多忙を極めてな。

「武士道とは死ぬことを見つけたり」の一文が一人歩きをしている「葉隠」だが、「これは生きる哲学だ。」と云ったのが、パリ オペラ座の天井画をシャガールに描かせフランスの最初の文部大臣であり、ドゴールの特使として昭和天皇に謁見したアンドレ・マルローだった。

「永遠の日本」が晩年のマルローの口癖だった。

ふるえを覚えた・・・・・

令和六年十月十五日

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溶岩盆栽

20年ほど前だろうか。近くのスーパーの片隅で売られていた溶岩にヤラれた。
『溶岩盆栽』と云う。

さっそく十数鉢買って夏の仕事場に装飾した。いわゆる盆栽は、日常的なお世話が必須なのはぼんやり理解していたが、ほどなく枯れた。
確かに盆栽など分の相応ではなかったのは、瞬時に納得。ここ数年は、写真のように単に植栽で満足してる。

 

『溶岩盆栽』のネーミングに興味があったので、浅間北麓の製造元を訪ねた。
「地元の知的障害のみなが造っています。」

さすがに、心打たれたな。

 

最近知り合ったM氏から戴いた青江三奈の「恍惚のブルース」が、
何故か部屋中音響いっぱいに麦酒の力を大拝借して、早朝の雨に号泣していた。(けっこうヤバい。)

ついでに云えば、バッハ、ベートーベン、ワーグナー各巨匠は、青江女史に習い演歌、怨歌、厭歌そのものかも。 

 

さらに、さらに付け加えるならば、『荒城の月』『名月赤城山』は、清潔、静謐感溢れる「音」と「訓」だ。


令和六年九月二十二日

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阿波の和紙

人も物も多いと風通しがよくないし、腐ることもままある。

で、この夏は障子の一部に「楮落水紙」という風が通る障子紙を使ってみた。風合いをはじめ、なかなかよい。
うっすらと、外の緑が見えるのが嬉しいな。
トイレ、脱衣所にも使ったが、障子紙を変えるだけで日常の営みも微妙な弾みも生まれる。

で、一心にタマネギをみじん切りにした。これって、かなりの快感だな。


令和六年八月二十九日

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雑記帳

夏の仕事場のロフトを整理してたら高校時代から始まって、将来に向けての迷路のような妄想地図が雑然と転がりだした。
読み返してみると、今とあまり変わらない。胸が塞がる思いも綴っている。
剥きだしに見える自分感には笑っちゃったな。

退路を断つような勇ましい箇所も随所にあり、悩める姿を隠すために妙に明るいタッチでも綴っていた。

 

昭和五十年の「太陽」をボロボロになるまで眺めていたようだ。

アッシジのヘアピンカーブの裏道の写真に憧れ、何度も通った。

安岡章太郎さんの「ヨーロッパやきもの旅行」は、よく引用させて戴いたが、なによりも「陶工」への視線などは、とても勉強になった。

思えば彼のリズムに合わせて、その数年後にレンズを向けていたのかもしれない。

令和六年七月二十二日

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「ハウ メニー タイムス ユア ライフ」

もう、40年以上前の旅だったろうか。はじめて訪れたバンコクで最初にレンズを向けたのは少年僧だった。彼は数度のシャッター音の返礼で「ハウ メニー タイムス ユア ライフ」と。しかもここは「暁の寺」。二十歳に熟読、精読した「豊饒の海」の第三巻のステージだ。今でも学生時代の仲間と会うと、バンコクと云えば「ジン ジャン、ジン ジャン」と相成る。(詳細はネット検索すべしだね。)

五十数年前と現在、そして未来が見事な直線を描いた。

なるほど、輪廻転生か。

この少年僧の両腕にタイ文字のお経の刺青がうっすらと。

「お経を覚えらず、いつも老師に怒られるので・・・・・」

旅の醍醐味って、地元ではごくごく普通の光景を撮ることだ、と実感。

それにしても大亜細亜の混沌って、凄いな。(大昔の連載ページをテーブルいっぱいに広げて)

令和六年六月三日

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少年たちの設計図

大東亜の決戦で敗れ、70数年だけで価値観が変わったと世は云う。しかし考えるに、人って、そんなに変わり得るのだろうか。
合理主義に真っ向から相反する茶の湯に、子供たちが無心に向き合っている姿に「時の時」を意識しレンズを向けた。テレビゲームをはじめデジタル機器をいとも簡単に操る世代だからこそ、「非合理」への関心が高まりつつある少年の脳内をこじ開け撮ってみたいものだ。

悦ばしきシャッター好機であった。


 

 

クマのプーさん

「ジョン レノンだって子供に対しては普通のオヤジだよ。」
学生時代にとてもお世話になった加瀬英明さんの口調が柔らかだった。亡くなる2年前にお宅に伺った時にいただいた著書を何度も読み返している。オノヨーコ氏が姪であった関係で、ジョン レノンが訪日の折に、文化論など交わしておられた。

「あのイマジンは、般若心経を彼なりに訳したそうだ。そう、大東亜の決戦は、正義の戦いだとも云っていたのが嬉しかったね。その証しに、訪日の度に 靖国神社を訪れていた。一神教の限界などなどの語りぐちから、これがビートルズの本意か、とも思った。ショーン君もオヤジの話に頷いていたようだし、そんな話をする彼は、普通のオヤジだったよ。」 「英国児童文学の傑作〝クマのプーさん〟を彼は例に出し、人間中心主義を戒めるかのようなこの物語は神道に通じるとも話をしていたね。」と加瀬さんは目を細めていた。

 

「〝おかげさま〝が、翻訳不可のもっとも美しい日本語です。」
彼は繰り返し云っていたよ、と最後に付け加えられた。


名状しがたい震えに震えた麹町の5時間だった。


 

 

悶々とのお付き合い

「問」「悶」の関係が面白い。ま「門」構えの問題なのだろうけど、興味が尽きない・・・・・

早朝の炎と煙は、四代にわたるポチとクロと同等同質の映像だが、言葉にすれば「悶々」しかないな。

小津映画を観ているように、ゆっくりと時間が流れる………


令和六年五月三日

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階段

呼び寄せる、という事

早朝の準備段階しか見たことがなかったが、あるきっかけで日中の骨董市へ。文京区の区報などで、その賑わいを知っていたが、これほどまでとは思わなかった。
赤いベストのご婦人は、メルボルンからのお客さま。 郷にそってのコスチューム・プレイが嬉しくもあり素敵だった。

どこで展示、販売、訴えるかは、会場次第であることを再確認した。

外人

欧米の観光客というより、バイヤーっぽい人が目立った。転写紙を吟味しているカップルはフランス語らしかったが、とても丁寧に慎重に品定め。
5枚ほど購入したが、けっこう支払っていたようだ。どんな使い方をするのか興味あったが・・・・・

 

ポスター


ご本尊の真裏にアールヌーボー風のポスター群。思えば如意輪観音さまの衣装もこんな感じだったな。この冬にこんな賑わいを余所に歴史ある茶室である歌宴がしずしずと開かれる。詳細は追って知らせるぜ。

 

 

 

香炉

 

燭台


気に入った香炉には手がだせなかったが、燭台を購入。早朝の揺らめく炎は、気を保つ唯一の方法かもしれないな。
「なに、片腹痛いよ」とニャン公の声が聞こえたようだ。

 

 

豆大福

 

英霊の桜も散りごろだ。で、豆大福なのである。

真向かいにK談社があるが、作家への手土産を用意してなかった編集者が、とりあえず身近な豆大福を買って三島由起夫邸に向かった。世界、日本中の銘菓に飽き飽きしていたのか、この豆大福を絶賛したらしい。
じゃ、とうことで松本清張にも持参したところ、いろいろな媒体に豆大福讃美のエッセーを寄せたのである。それ以来、60年以上にわたりご覧のよな行列に相成ったわけ。何度か食したが、確かに確かに・・・・・

 


令和六年四月十六日

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腳力盡時山更好

 

夏の仕事場では、毎朝、足湯が日課だ。長い上り道から始まり往復5000歩ほどだろうか。
二年後には、世間で云う「後期高齢者」だ。それにしても、誰が「高齢者」の年齢設定したのだろう。
高血圧、地球温暖化の数値のように謀なのだろうと信じて止まない昨今だ。

CO2増加で最も喜んでいるのは、道端をはじめすべての植物群なのにね。

数値の根拠は、産業革命以来と嘯くのが「常識」とされているが、地球46億年の足跡を辿ってモノを発言して欲しいよ。

 

で、漢詩なのである。

足腰のことを考えていたら、40年近く前の原稿がよぎった。30年前に連載の雑誌類はすべて棄てたので手許にはない。そこで版元に問い合わせたら、200ページほどを、すべてスキャンしプリントアウトまでして戴いた。感、極まった。

 

「ちょっと疲れた目の下がだぶってきて、 何かじっと考えるてる、考えることなんか何もないのに。
だけど考えるんだ。矛盾を抱えた困惑の男性美なんだよ。」 『鶴田浩二論』(三島由紀夫)

 

ちなみに足腰が40年前になった気になった。「白蛇伝」に祈るばかりた。汗笑)


令和六年三月二十四日

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透過光の静謐を覚える

 

ドキュメンタリー 『OZAWA』 (1985)を観た。若い頃、モービル音楽賞受賞の折、撮影の好機を得たが、改めてドキュメンタリーを繰り返して観た。全編に流れるのは「音」なのだが、何故か透過光を通した茶室と重なったのである。
上等の蒸留酒を呑んだような妄想だろうが「音」を「観る」のだ。
つまり「観音さま」と小澤征爾がひとつになった。

木洩れ日を浴びる煙草盆が美しいが、単なる飾りでしかない。火入れの灰おさえの所作を見ていたら、一服といきたいけど、ネ。おかしな世の中になった。
腹いせに琥珀色の泡を撮った。


一三年前の今日だったな。いまだ2520人の方が見つからない。無念の極みだ。合掌。


令和六年三月十一日

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ワン公とニャン公

いわゆる犬派を70年自認していたが、あるきっかけで猫を飼ったが、日常の動きがまったくちがった。

 

猫は犬のように同情を引くような眼差しは一切なく、いつも冷たい視線をレンズに向けていた。シッポの振りもその動機が不明だ。身近な四つ足が、かくも違ったのはその動きだ。毛の末端までニャン公の躍動感がワン公を圧していた。

美術でよく云われるフォルモロジー(形象学)に興味を引く昨今だが、ニャン公の運動におけるフォルム美として遊んでみた。

 

小像たちを試験管の中に入れて攪拌したくなった。

 

今日は紀元節。
ギネス世界記録によると、世界一古い国として二位のデンマークの1088年よりはるか遡り、なんと建国2681年を迎えたのだ。
今朝の明けの明星は、紀元節を奉祝している輝きだ、


令和六年二月十一日

 

正月は終わった

お寺の巨大な鏡餅。10年前までは、坊さまが細かくして壇信徒さんに配っていたが、いまは出入り口付近に「ご自由のどうぞ」となっている。この鏡餅を家に持ち帰るだけでも大変な作業で、また「解体」はさらに難儀するが、数年前から我が家で「解体」の儀が恒例になった。

 

そう、格闘技のような「修行」なのであるぜ。

金剛のように超固い餅の外皮に熱湯を浴びせつつ、ナイフで切り込みをつけ、そこから切れ目を増やしながら「解体」するのだ。上段の餅だけで2時間を費やし、小さくなった餅塊 はベランダで天日干しに5時間。

で、仲間に半紙にくるんでお配りするのが、坊さまに変わっての役目なのである。
みなさんの笑顔が嬉しい。 で、僕の正月が終わるのである。

 

能登半島の苦難をはじめ諸々の苦渋を噛みしめるように、毎日、かけがいのない餅をいただいている。


令和六年一月二十一日

 

 

暴れ辰

昨年夏、輪島の塗師の作品を撮った。塗皿の色調に合わせ、食卓には普段あり得ない食材の数々で独りほくそ笑んでいた。311の記憶がまだそこにあるのに、能登半島なのである。
言葉がない。

 

 

そんな悶々の中で、知人から嬉しい知らせだった。さすに日本列島は強靱なのである。

 

———【展示会のお知らせ】

日程:1月17日(水)~23日(火)
場所:新宿伊勢丹 本館5階

このような状況下ではありますがポップアップを開催させていただきます。
昨年末に準備していて震災を免れた品物や、震災後になんとか集めた品物たちを展示します。———

 

ほっとした お知らせ であった。

令和六年一月一五日

 

 

 

 

辰の叫び 。

西之島でが動きだした。世界の地質学者が結集し、その成長の謎解きを始めているのだ。海底火山 はいたるところで噴火しているが、島は2、3年で沈んでしまうのが常。しかし西之島は軽い安山岩なので沈まないのだ。 つまり地球上の大陸と同じ形成過程だと地質学者が興奮してテレビカメラに向かって叫んだ。
今では、世界の植物、昆虫、動物、細菌学者が結集しつつあると伝えていた。
強奪された千島列島に変わって、西之島が伊豆七島に繋がってくれたらいいなぁ。(写真提供 NHK)

 

元旦から唐突だが、レンズを向けた朝鮮琴の音色が、百済っぽいのが胸底に響いた。

 

「みじめさの中で、聖性を夢みていた」と主人公が語った小説を、昨年末から読み返している元旦だ。

 

令和六年一月元旦

 

 

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