陶工たちの非凡な「造形」をもとめて

 

 
少年時代のルノワールが歩いたサン・エティーヌ橋を渡った。 

 

 リモージュのサン・エティーヌ橋をわたるころ、街は橙色に包みこまれていた。かつて、名もないルノワールが、ドガが歩いたであろうこの橋は、しんとした静けさで満ちていたが、ヴァカンスシーズンにはこの橋もおおいににぎわうという。

 鍛えに鍛えられた陶工たちの非凡な「造形」をもとめて──さらに歩きつづけた。 リモージュはパリから特急で約三時間、人口約一四万人のフランス中部にある古い街。三世紀ころローマ人によって栄えたリモージュは、五世紀末の西ゴート王アラリクス二世の軍隊によって破壊され、また一三三七年からはじまった英仏百年戦争などでリモージュはその運命をもてあそばれていたが、エマーユが再興すると同時に、おおくの職人が住みつき平和の時代がやってきた。

 そしてこの街をさらにゆたかにしたのは、一七六六年、リモージュ南部三十キロにあるサン・ティリエ・ラ・ペルシュで、まれにみる純白のカオリン(磁器の原料となる粘土)が発見されたことだった。

 ルイ一五世時代、王立セーブル窯の下請け工場として、リモージュに白生地生産のみが要請されたが、ナポレオン三世の一九世紀なかごろには独自の生産活動が活発になり、三〇以上もの窯がすぐれた磁器を製作していた。リモージュ焼きのはじまりであった。


ベルナルド窯

 

 
 
200ミリのレンズで通路から職人の手元を覗いた。

 

  現在、リモージュでつくられる陶磁器のうち二十 に及ぶシェアを誇るベルナルド窯は、ピアノとテニスのプレイヤーで知られる故ピエール・ベルナルド会長のご子息であるミッシェル社長によって運営されている。

  フランスの優雅さと伝統を伝えるこの窯は、一八六三年に創立され、以後、王室御用達となり、一九二五年の万国博で金賞を獲得したのをはじめ、数々の国際賞を受賞している。 王朝風の豪華な金彩から、可憐な花柄まで四〇〇に及ぶ豊富なデザインは、グルメたちの目を楽しませ、「ジャマン」「タイユヴァン」「ル・デュック」などの一流ホテル、レストランで愛用されている。

  ヨーロッパの一流品は、日本市場で大いに賑わうところだが、最近はスカーフ、バックに代わり、高給磁器が大変な人気という。ミーハーで、スカーフ、バックを買うのは理解できるが、一客、二、三万円もするコーヒーカップとは、合点がゆかぬ。明確な回答を与えてくれたのが、リモージュ取材の通訳O嬢。彼女は茶人としてパリで活躍するなかなかの数寄者だ。

  すべては好奇心からはじまる。つまり、出発点はミーハー娘と同じであってもかまわず、あとは使い手の問題で、二、三万は高くはない、と彼女ときっぱり言いきった。 

 

超モダンとハイプリミティブ

  

カップ   冬の午後ではあるが、たおやかな光が廻りこむベルナルド窯の絵付工房。手慣れた職人は、この窯のロングセラー「ヴァンドーム」の金彩を丹念に画き上げていく。 
  茶人、O嬢はつゞける。王朝風といっても、ここの金彩は妙に華美にならずひかえめで、リモージュの特徴である澄んだ白と金は、茶道具としても使える、ということだ。小さな茶入れや、建水、菓子鉢、水指などデザインが西洋に徹するほど、なぜか東洋の世界に溶け込んでくる、とも力説する。

  あるデザイナーが「超モダンとハイプリミティブは同調する」と言っていたが、なるほど、と思う。ベルナルドの花柄のサラダボールに塗蓋をあしらえば、その時、水指となるだろう。パリに戻ったらO嬢の点前で一服戴くことにしよう。夜咄のテーマは「ミーハーと花」だ。

  午後五時、窯の火が落とされる。リモージュの秋の陽は短いが、街の夜は長い。

 

 

ベルナルドのお問い合わせ
ジーケージャパン エージェンシー株式会社
東京都中央区日本橋3-14-1 新々会館7階

 

 

 

Kazarikei

 
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