中公文庫

ヨーロッパ陶磁器の旅

 
乾いた大地、照りつける太陽、逝る血と惰熱。
ムーア人が求めた地上の楽園はヨーロッパ近世陶磁器発祥の地となり、
その彩色陶器はマヨリカ陶器としてイタリアヘ伝えられた。
アズレージョと呼ば札る白地に藍の装飾タイルに彩られる
ポルトガルの街角。
人の温もり、激しさと同時に涼しさを伝える陶器は、ただの土の塊ではあり得ない。
美しい職人の手技にチンチン(乾杯)!

 

 
第一巻

 
フランス編
ロココの華が生んだ青

第二巻

イギリス編
女王陛下の愛した器

第三巻

ドイツ編
東洋の白に憧れて

第四巻

南欧編
半島の光と影

第五巻

北欧編
白夜に咲く藍の花

第六巻

トルコ編
文明の交差点に眩惑を感じて

※ 定価 920円 (税込み)

 



第四巻 南欧編  CONTENTS

泥のように酔い、巡礼者のように清貧だった陶工たち――はじめに  7
イタリア  11
静誼な聖地の産んだ色鮮やかな陶器――ペルージアからアッシジヘ  12
陶器発展の中心地――ファエンツァ  21
歳月に色槌せぬ都市――フィレンツエ  30
バルジェロ国立美術館  37
イタリアの白い太陽――リチャード・ジノヅ窯  42
オーナーの好みに調えられたホテル――ホテル・リージェンシー  56
ヴィラ・ジュリア博物館  60
ローマ大学 ジュリアーノ・マナコルダ教授  66
タイルのあるホテル巡り 1――ホテル・サンピエトロ・ディ・ポジターノ  72
タイルのあるホテル巡り 2――ホテル・カラ・ディ・ヴォルペ  76
スペイン  81
イスラムの絢燭を残した都市――セビーリャ  82
十世紀に最盛期を迎えたイスラムの王都――コルドバ  93
荒々しい海岸の窯――ラ・ビズバール  101
遊び心に満ちた芸術家たち――バルセロナ  109
夢を閉じこめた器――リアドロ 118
イスラムから持ち込まれたエナメル釉――ヒメノ窯  124
翼を持つ壼――マドリード  133
国営城館の宿パラドールを訪ねて1――グラナダ  141
国営城館の宿パラドールを訪ねて2――アルバセーテ  146
ポルトガル  153
アズレージョから始まったポルトガルの旅――ポルト  154
染付けタイルに飾られた街――アヴエイロ  158
ポルトガルで焼かれるイマリ――ヴィスタ・アレグレ窯  163
ローマ都市の遺跡に建つ窯――コニンブリガ窯  173
自然賞賛の伝わる器――ボルダロ・ピニュイロ窯  179
アズレージョを博物館に訪ねて――リスボン  185


ラ・マンチャの国道を疾走した。



マドリッドの装飾美樹幹に保存された18世紀の台所。

 


 

――泥のように酔い、巡礼者のように清貧だった陶工たち――



 
地中海の大陽を浴びて育ったマヨリカ陶器の魅力のひとつにグロテスク文がある。
動物、植物、人間、仮面、建築の一部を抽出し、曲線模様を連鎖したこの様式は
場合によっては奇怪、奇妙、奇異な姿を曝けだす。
ルネサンスの巨匠たちの傑作は人類共有の財産だが、僕だけの財産も欲しかった。
 
  一〇年前の話。
“もってけ、ドロボー”じゃないが、鼻の先が真っ赤なオヤジに薦められた小皿を、思い切って値切ってみた。
買値は一瞬にして三分の一になった。
じゃ、オヤジの値踏みがいい加減なのか。違う。違う。
オヤジが仕入れた小皿には、もともと値段などなかったのだ。
「仕方なく家業を継いで、もう六〇年になるかな。あのころはローマやフィレンツエに憧れたがね。女房も死んだしワシの連れは今の仕事だけ。報酬?、ウム、ウム、シー、シー、ウィッ」と右手に絵筆、左手にワイングラスの陶工の写真を眺めながら、彼の絵皿を思い出した。
 
  ブドウの実が地面を這い、オリーブが空に遊んでいる。筆致そのものがユラユラ、ユルユルと歪んでいる。全体的に濃いマンガンの紫で描かれたその文様は、どう見ても健筆をふるった痕跡もない。だがこの皿は、奥底に鎮っている人間の生命力が棲んでいるようでもあり、何ものかに憑かれた霊異ももっていた。
 一〇年、いや、一〇〇年、二〇〇年、三〇〇年もきのうの如く、僕はグロテスクな皿の写真をただただ眺めていたのを思い出す。


看板もさすがに陶器で造られていた。

 

 場所がかわってイベリア半島である。コルドバに向かう途中、耳が片方だけ垂れた犬を伴った羊飼いの老人に出会った。飄々と訥々と、それでいて炯々とした眼力で老人はいった。
「フェリア・デ・ガナード(家畜市)でひと稼ぎさ。どうもこいつらは礼儀をしらねぇようだ。人んちの草を好んで喰いやがる。てっきりアンタらを警備の奴らと思ったよ」
僕のレンズは老人の皺の一つひとつを捉えたが、肩と背中のあたりにただよう威厳は撮り逃したようだった。

  「威厳? なんだ、そりゃ。スペインでは力んではダメだめ」
 スペインをはじめて訪れた十五年前、僕はある男にこう教わった。
いらい、たびたびスペインを訪れているが、僕はまばたきするようにシャッターを押すことを心がけてきた。

  マニセスで五〇年もロクロとつき合っている陶工が、ほのぼのとした笑みを刻んで呟いた。「美術館に収蔵される名品はかわいそうだ。ワシが現役でいるのも、器が現役でいるのも悦びなんじゃな」彼はスペインから一歩も出たことはないらしいが、土とロクロを通して世界を見据えているようでならなかった。

  彼にとって大航海時代の栄華は、ものの数ではなかった。過去の遺物でしかなかった。
七〇〇年にもおよんだイスラム教徒の文化をわがものと昇華、止揚、継承、再創造する、つまり“文化の現役”を彼は五〇年間も、いやこれからもつづけるのだ。

 


顔料容れのパレット?にも意地があるようだ。

 
沈着だが唸りをあげて、陶工の手が動きロクロが回転しはじめた。
 シャッターが二回、三回、四回とまばたきをした。
 陶工の肩越しに、僕は写真術のなにかを教わったのである。
 南ヨーロッパの陶磁器の旅は、膨大な撮影済みフイルム、高い空と紺碧の海、さらに僕の胃袋に消えた美味な魚介類だけではなかった。
 清貧のなかに生きる陶工たちの生きざまが、しっかりと僕の肉体に宿っているのである。

 

         ヒメノ窯          

 バレンシアから車で約二〇分、灼熱の太陽を浴びて育った陶芸の街、マニセスに着いた。 車内はすでにサウナ風呂のように暑いが、街角の壁に埋め込まれたタイル絵が、涼しい風を送ってくれているようだ。眩しい表情の陶器が売られていた。緑や青で絵付されたエナメル釉で、どれもがイスラム風の装飾である。朽ちた門扉の前で店番をしていた老人は、とても愛想がよく、カメラを向けても微笑を絶やすことがない。おまけにオレンジを三つもプレゼントされた。その場で皮をむき、一気に食べたがさすがオレンジ大国、その味はこの地を支配していたアラビア人をも魅了したであろう、美味そのものであった。
 
  さてアラビアといえば、近世ヨーロッパ陶器発祥のスペインと深い関係があり、さらにピレネー山脈を越えてヨーロッパ文明に与えた影響ははかり知れない。つまりヨーロッパの科学、芸術、生活一般に関して、彼らが今、もっとも毛嫌いしているアラブからその多くを教えられていたのである。
 
  イスラム教徒がイベリア半島に入ってきたのは、七一二年のことである。七一五年にはコルドバを王都とし、イスラム王朝である西カリフ帝国を建設した。以来、キリスト教徒によってイスラム最後の都であったアルハンブラが落城する一四九二年まで、なんと七〇〇年以上もイベリア半島に君臨していたのである。
  
  スペイン陶器のことを、「イスパノ・モレスク陶器」とよく聞くが、これは直訳するとスペインのムーア陶器であるが、ムーア風のスペイン陶器といったほうが正しいようだ。 八世紀、この陶器はまずイスラム世界で発展をみせた。何故なら、イスラムのアッパス朝がコーランの教えに従って、金銀器の使用を禁止したことに起因しているといわれるが、それに拍車をかけたのが中国磁器への憧憬であった。銀や銅を含んだ金属釉薬を使い、黄金色から赤銅色までの妖し気な光沢を放つラスター彩陶器、また緑、青、黄色で彩色されエナメル釉を使った色絵陶器の技法はイスラム教とともにムーア人によってイベリア半島へ持ち込まれたのである。
 
  イギリスのヴィクトリア&アルバート美術館をはじめ、世界の著名な工芸・陶磁美術館でまず目に入るのがこの「イスパノ・モレスク」である。
 このようにスペインの陶器は、イスラム文化とともに歩みつつも、少しづつスペイン独自の形を創り上げていった。窯場の多くは、イスラム王朝のあったコルドバを中心にグラナダ、マラガに集中していたが、一五世紀に入ってイスラム教徒とキリスト教徒の間で戦争がはじまると、ムーア人の陶工たちはイベリア半島の南部へ移動しはじめた。その地は、今回訪れたバレンシア地方のマニセスでありパテルナであった。

 


街道沿いに生活雑器を売る店が軒を競っていた。

  
 
「イスパノ・モレスク」の伝統を忠実に継承する窯は、今もマニセスに数軒ある。その代表的窯であるヒメノ窯に向かったのは、シェスタが終わりそうな午後四時ころであった。 「シェスタは昔から怠け者と決まっている。ウチではそんなことはない」と日向ぼっこを楽しんでいた威勢がいい爺さん。いや失礼、実は彼がオーナーのビセンテ・ヒメノさんであった。
 
  「ウチは一八世紀末のマニセス陶器を焼いているよ。うん、それにしてもフランコは独裁者であったが偉かったね」と、腕を組んで話題があちこちに飛ぶ。

 


天井も焼き物であったヒメノ窯の付属美術館。

 ヒメノ家は代々陶器造りを家業としており、彼の父ホセ・ヒメノさんで三代目であった。 現在のヒメノ窯の繁栄は、もちろんビセンテさんの努力にもよるが、「やはり父が偉大であったからでしょう」と彼は一枚の写真を見せてくれた。写真には一九六六年と記されていたが、これは人間国宝のような称号をフランコから与えられ、その授与式の様子が写っていた。ホセ・ヒメノは一九六七年に他界したが、当代のビセンテさんが跡を受け継いだわけである。
  
  ヒメノ窯では、花瓶、酒杯、大型の飾り皿、アルバレロと呼ばれる薬壺、珍しいところでは鳥籠などを焼いている。さらにこの窯の特徴は各時代の主題を取り入れていることである。アラベスク文様の草花文、ゴシックの四葉文、葡萄唐草の十字文などが豊かな色彩で描かれていた。さっそく、絵付工房に入ってみた。まるでサンルームのような明るい部屋であった。六人ほどの女性が一八世紀の見本をもとに、一筆、一筆花柄を描いている。顔料を入れ汚れた陶器も、それなりの美しさを放っている。壁には窯待ちをする陶器の棚、有名スターらしき男性の写真もたくさん貼ってある。

  


日本に持ち帰りたかった陶製の鳥籠。

「一六世紀ころには、イタリアが多彩色の陶器をつくりはじめたからマニセスの輸出量が減ってね。イタリア人は我々から学んだ技術をもって、逆にこちらに売り込んできたね」 案内しながらビセンテさんは、さらにマニセスの歴史を教えてくれた。
 
  一六世紀は、イタリア・ルネサンスの盛期であり、彼らの造形・色彩感覚で焼かれた陶器はスペイン・マジョリカとなって、一七、一八世紀にスペイン各地で焼かれるようになったという。
 
  ヒメノ窯には、一八世紀マニセスの精髄が展示されている。そのひとつひとつは、ヒメノ一族の陶器への熱情であり、汗でもあるのだろう。
 外はまだ陽差しが強い。
 陰干しされた酒壺が、乾いた地面に長く美しい影を落としていた。 

参考図書
脇田宗孝『世界やきもの紀行その源流を訪ねて』(美術書出版 )
三上次男 . 『ペルシアの陶器 』(文藝春秋)
『ヨーロッパの陶磁』(岩崎美術社)
『ヨーロッパ陶磁名品図鑑』(講談社)
『ヨーロッパ名窯図鑑』(講談社)
前田正明『西洋陶磁物語』(講談社)
『陶藝の美』(京都書院)由水常雄
『図説西洋陶磁史』(ブレーン出版)
三上次男 『陶磁の道』(岩波書店)
西田宏子『一七・一八世紀の輸出陶磁』(毎日新聞社)
冨岡大二『吉陶磁の見方のコツ』淡交社
『伊万里』(学研)
三杉隆敏『やきもの文化史』(岩波文庫)

 
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