私達の第二の故郷とも云うべきプリンスランドは、上信越高原国立公園2000メートル級の秀峰に囲まれ、浅間山の裾にくり広げられた雄大な高原にある。
天明3年(1783年)8月浅間山(2560m)の大爆発と噴火で、灼熱した溶岩流が瞬時にして浅間高原の南から北の低地にある鎌原観音方面へと走って行き、その溶岩の流れた浅間高原の跡地は、火山岩、石、火山灰が中心で不毛の地となった。
その途中にあったプリンスランド(嬬恋村大字大前字細原)は、約115万坪(379.5ha)の広さで、海抜1100乃至1200mの高さのなだらかな高原に位置している。
ここは、夏涼しく(15~20℃)、湿気が少なく、静かで空気がきれい。浅間山からの湧水はつめたく、おいしい。 夜になると葦の生えた川辺りを源氏ホタルが飛交い、きらめく星が夜空に輝いた。又、近くにはいくつかの温泉場もある。日本三大野鳥の棲息地の一角でもあった。別荘を造るには正に最適の場所。
プリンスランドの土地は、元々このような原野で、自然公園法の適用もなく、法的規制は殆どなかった。この土地は嘗て国有地であったが、昭和25年頃(1950年)大前地区の農地改良組合に国から払い下げられた。
後年これを大蔵屋開発(以下大蔵屋と云う)が買い上げた。鬼押出しから三原までの有料ハイウェー(後の浅間・白根火山ルート)も国土計画によって計画され、国鉄上野駅から万座、鹿沢口駅まで特急白根号の運転が予定され、又将来は軽井沢を通る長野新幹線が予定されていた。 大蔵屋の清水社長はこのように恵まれた交通アクセスの計画と、法規制が少なく別荘地に適したなだらかで広い高原の土地に着目し、雄大な計画を立てた。
即ち、広い丘陵地帯を七つの街区に分け、正面に自由の女神の通り、南北に浅間大通り等、道幅の広いアスファルト舗装道路を配置し、別荘地住民が集まれるシティホールをシャンボールの中に設け、ゴルフコース(10万坪)や、大規模な運動場、スイミングプールも造った(小計約16万坪)。
そして昭和41年(1966年)秋から第一次(星の街)別荘分譲が始まった。
都会から来た者も旧軽井沢辺りからこの大蔵屋プリンスランドの新天地に移転して来た者にとっても、ここは別荘環境と云い、魅力的な共用施設と云い、正に平和で安らぎのある快適な別荘地でもあった。
スポーツに休息に又素晴らしい別荘生活を楽しめる別天地でもあった。 スイミングプールの近くにはおいしい中華の店や日本食堂もあり、風通しの良い処にオーナーズルームも造ってくれた。
当初からプリンスランドは浅間高原では正にすぐれた別荘地であった。
しかし、プリンスランドの環境は、法的には、何の規制も保障もなかった。当初の開発者大蔵屋の清水社長は、別荘地が自然と共生することをその計画の内に置いていた。 又、プリンスランドの分譲自体は、着実に伸び、好成績を挙げていた。大蔵屋は分譲地に対し、騒音を出さない、車は地内時速30 km等と厳しい「共益管理規定」を作成し、買主(別荘所有者)に対し、その遵守を求めていた。 オーナーもこれに従っていた。
大蔵屋の担当者は皆親切でよく別荘オーナーの面倒をみてくれるので、我々オーナーは、すっかり安心し、大蔵屋を面倒みのよい大家さんだと思い、大蔵屋を頼りにしていた。 ところが昭和58年(1983年)夏、我々がプリンスランドに行くと様子が全く変わっていたので、驚いた。
プリンスランドの内は遊園地に来る外部からの車と人で混雑し、自由の女神の通りは車で一杯。 プレイランドには、別荘地には全くふさわしくない東日本一の大観覧車やバイキング、西部劇の打ち合いをする砦等耳をつんざくような物凄い騒音。
ホテルグリーンプラザのリゾートホテルや入口の大型レストラン等が建設され、別荘地使用の水もこれら施設にとられ、別荘は水飢饉。湯沸器も水洗トイレも使用できない。 ほんの短期間の間にプリンスランド中心部26万坪(ゴルフ場・プレイパーク等)は遊園地・レジャー施設化して仕舞った。オーナーは大へん驚き失望した。そしてこの源の業者が安達グループであることがわかった。
オーナーはプリンスランドの現状にいたく失望し、大家さんと頼りにしていた大蔵屋に苦情を云ったり、手紙を書いたが、何の改善も期待できなかった。 高原の楽園に長年住んでいた多くのオーナーは、横の連絡をとる方法すら知らなかった。しかし、宮城裕史(医師・初代会長)を中心とする10名余りの人達が、その年の秋から自然と環境を守り、親睦を図るオーナーズ会を造ろうとして、計画していた。
宮城・武井等を中心とした十数名の呼び掛けで、翌昭和59年(1984年)5月14日(月)新宿文化センターに多くのオーナーが集まり、プリンスランドの自然環境の保全とオーナー相互間の親睦を図るため、「オーナーズ会」が発足した。 各街から代表委員を選出し、後日の委員会で、宮城会長、柴田、川又各副会長、小池会計、守谷環境委員長・顧問等が選任。そして「プリンスランド オーナーズ親睦会」会則(案)が策定された。
昭和59年5月24日オーナーズ会の代表役員は、大蔵屋と第1回の会合を持ちプリンスランドに遊園地を作った安達グループについて話合った。 その結果、大蔵屋は昭和58年5月オーナー達には何も知らさずプリンスランドのゴルフ・コース、プレイランドを含む中心部26万坪を安達グループに売却した。 その売却条件の中に(イ)共益管理規定を守る、(ロ)騒音については留意する、(ハ)諸施設は別荘地にふさわしいものとするとの条件を大蔵屋は、つけたとのこと。
しかし、残念ながらこれらは現実には全然守られていなかった(「つまこいNo1」参照)。 大蔵屋は、プリンスランドでは高収益を挙げていたが北海道、沖縄、房総半島等のリゾート開発事業に失敗し、その負債を弁済するため、当時リゾート・遊園地業で急成長していた安達グループに26万坪を売却したことがわかった。
その後、6月14日新宿グリーンプラザで、安達事業グループ、東京商事、ホテルグリーンプラザチェーン等安達グループの責任者らと話合った。 席上私達は、先住民の我々が平和で快適に別荘ライフを楽しんでいたのに、突如常識外れの大観覧車やバイキングが現れ、それ迄の自然の風景を一変させ、スピーカーから流れる騒音はまるで新宿にいるようなもの。
オーナーズ会としては、安達グループに対し、(イ)騒音を出さぬこと、(ロ)遊園地等に来る顧客の駐車場を安達グループですべて用意する、(ハ)別荘地にふさわしい諸施設を作ることを申し入れた。 安達グループ側はこの申し入れの趣旨は了承してくれたかに見えたが、オーナーズ会からの出席役員一同このままでは、この先プリンスランドも、我々の別荘地もどうなるのかと心配した。
8月12日(日)午後1時30分よりプリンスランド・シャンボール内コンベンションルーム(現在なし)で臨時総会(第1回総会)を開催、出席者153名、会則案、会計概算報告、本会の活動方針、会費、役員等の承認を得た。 安達グループとの交渉の中間報告をし、同グループは何百億円かの資本を基に日本各地でリゾート活動をしているのに対し、オーナーズ会は会費だけで立ち向かうのであるから、会員一同の団結・結束を強く訴えた。
当時、安達グループが、プリンスランドの開発について群馬県知事に対し山林法に基づく大規模土地開発の許可を求めていることを知ったので、宮城、川又、守谷らが中心になって、再三前橋の群馬県庁の担当課である土地対策課を訪問。 プリンスランドの実情を訴え、オーナーズ会の正当な要求が通るよう県から安達グループに対する指導を求めた。
その結果、オーナーズ会は安達グループと互角に戦い、交渉できるようになった。 実務的には、オーナーズ役員会の意向を基に安達グループ側代表ら(社長室長福田武士氏ら)と月に何回も交渉。
昭和60年(1985年)正月頃からは、当方(守谷)で協定書の原稿を作成し、安達グループに提示し、安達グループからオーナー側にカウンターの申し入れがなされ、これをこちらから又押し返すやり方の繰り返しであった。
その纏まった骨子は、次のとおり。
1 安達グループ側(甲)は、オーナーが長年、平和で安らぎのある快適な別荘生活をしていたことを認識し、この環境や生活条件を守るようにする 。
2 甲は共益管理規定を協定にとり入れたものとしてこれを遵守する。
3 騒音防止のため群馬県公害防止条例の規則を守る。
4 甲が新規設備を設ける場合、甲とオーナーズ会(乙)の協議・合意の上、これを行なう。安達社長が自社の所有権行使の制限を大へん心配していたので、乙は甲の提案に対し徒らに反対・留保しないことにした。
5 甲は自己の顧客のため1775台の駐車場を設ける。
6 水道、テレビ、ゴミ回収でオーナーに迷惑をかけない。
7 甲のホテルから近くの別荘が直接見えないよう、グリーンベルトの樹木で囲む、その他プライバシー等を守るため地区計画的発想を摂り入れた。
8 万一、甲の関係会社が第三者に権利を譲り渡す場合は、譲受会社の協定書遵守の承諾書を乙に提示すること。等、13条にわたる詳細な協定書内容に合意。
これら交渉の経過報告の原稿は守谷が、編集、印刷、発行は川又、時に小池が行ない、「つまこい」は1年間で5号迄発行された。
委員一同日曜、休日、飯野ビルの会議室に集まり、宛名を皆で手書きして、「つまこい」を会員全員に送り、最新情報を知らせた。(交渉報告の原稿は常に相手方に見せ了解をとっていた。)委員は、損得を離れ、第二の故郷プリンスランドのため頑張った。 この気持は現在もオーナーの心に残っている。
昭和60年(1985年)4月26日夕方、千代田区海運クラブ会議室に東京商事、日本オーナーズクラブ、上信レジャー開発の代表者らと、オーナーズ会役員、各街の代表委員が集まり、協定書に署名・押印した。大蔵屋も同協定の約定が機能するよう管理業務を行なう旨文書で確認した。 調印の後その足で夜、宮城、守谷、小池、原田各氏が前橋に向い、翌4月27日土地対策課に出頭。
そこには、環境保全、都市計画、建築課等各課の責任者も集まり、嬬恋村からは宮崎課長、干川係員が出席された。席上、過去1年間の経緯と、協定書内容を守谷が逐条的に説明・報告し、宮城会長が今後のご指導とご協力をお願いした。その後、前橋から嬬恋村役場に向け宮城会長のスポーツカーで走り、夕刻村長宛協定書写しを提出。
安達グループの遊園地の騒音は当初からは大分おさまったが我々が期待するレベルには中々ならなかった。
駐車場の台数は2、3年遅れたが、実行された。新規設備の点は概ね良心的にやってくれた。20年の歳月が経った今日、協定書は今もオーナーズ会と安達グループとの間で機能している。(文責 守谷英隆)
人間は聖人でもなければ、極悪非道の悪人でもない。
しかし、経済的に困ったり、欲がからむと、大切なことを忘れ、法令か協定書で律していないと、
自然との共生はできないことを教えられた。(平成17年)