「縁」とは「奇」なる、否、「貴」なるものか。
「護国寺のおケイちゃん 」からピーター ラビットに繋がった。

そのフィギリンを撮りに、せっせと通ったのが英国のストーク オン トレント村にあるロイヤル ドルトン窯だった。
なんとその日本支社の代表が、「護国寺のおケイちゃん」との縁を紡いだ O・N氏だったのだ。まだ手紙、メールだけのお付き合いだが、
来年の夏にお会いすることが決まった。

「おケイちゃんのご寝所」とO・N氏と僕が、なんとなく同じ線上にあるような気がするのだ。

違いは、縁の上か下だけなのである。

 

令和元年十二月二十八日

 

もう二十年前に喰った料理の原稿とキャプション書き。
味はおぼえていないが、ご自慢の野菜畑の光景は昨日のごとく鮮明に焼き付いている。

百十ユーロの誘惑だった。  
アーティチョーク、セロリヤック、アンディーブ、エシャロットなどフランス野菜のイラストが描かれたメニューを開くと、
まず目に入ったのがデギュスタション・ムニュだ。直訳すると試食メニューとなるが、シェフ自慢の味が少しづつ愉しめるのだ。  
「素晴らしい料理のアイデアは貧困のなかから生まれたということを忘れちゃってるね。」
豪快な語りぐちのジャン・バルデ氏。グローブのような大きな手や両肩から彼の自信がむんむんとたちのぼった。
「貧困」を「不自由」と置き換えて、チト考えてみた。

 

令和元年十二月十五日

 

 

「一粒で五年寿命が延びるヨ。」とサッチャン婆(寺友)から飴玉五コ貰った。パッケージを見ると、丹波の生産。
徐福は秦の始皇帝に不老不死の薬を探し求めるよう命じられ、海を渡って丹波の新井崎の岬に辿り着いた ——— という伝説の岬で
先月写真を撮っていたのを思いだしたが、その薬とは「神桑」というものらしい。(実際には「九節の菖蒲と黒茎の蓬」)
なるほど。
で、二千年以上を経て「 桑の葉 のどあめ 」になっちゃった。
ヨモギっぽい味がしたが、美味くはない。五コだったら二十五年の計算だな。

飴玉の御礼に伝説の岬の写真をプリントしてお渡ししよう。

寿命が縮まってもいいので、カンロ飴の方がいいな。

 

令和元年十二月七日

 

 


その「手」を集中して撮っている時だった。
「俺も八州無宿、国定忠治の流れの上州の生まれ。時にはいかさまもやるさ。」 と。
かく在るべき政治家と思った。
初当選してからはずっと葬儀用の黒ネクタイで登院。「占領下は日本国の喪中」なのだった。
高崎市の事務所には半旗が掲げられていた、と報道を記憶している。 そして総理になってからマスコミのバッシングが始まった。

そう、「風見鶏」報道だ。 音を観るのが観音さまだが、風を観たのが「ヤス」なのかも知れない。
風見鶏は軸がしっかりしていないと、風を観られない。
事務所には派手な国際政治をアピールする写真が飾られていたが、縄文の合掌土偶が ——————。
「ヤス」の胸底の深いところにある「美と信念、確信」に、しずしずとレンズを向けた。

令和元年十二月一日

 

 

ある方の死によって、学ぶべき優しい 「行者 」 を知った。そして彼の 「御寝所 」を撮った。
名は、「護国寺のおケイちゃん 」

興味を持ったのは、彼の仲間である山窩(サンカ)という住居を常に移動する独特の集団だ。さっそく図書館から資料を取り寄せ、

二巻ほど購入。独自の言語や風習、徹底した秘密主義など実に面白いではないか。そしてある種の職人集団でもあったのだ。

そう、彼は大都会の修験者だったのかも知れないな。

 

令和元年十一月二十四日

 

 


 

この度の15号、19号での洪水で一気に35年前のイスタンブールに飛んだ。アラブ首長国連邦からの流れでトルコで撮影していたが、

気持ちはイラクだった。つまりメソポタミアの「方舟」の客観的「証拠」を撮りたかったのだ。

トルコでアテンドしてくれたトルコ人の女性が、かたくなにイラク行きを拒んだのだ。

彼女がトルコ行きを承諾するまで、ひたすら茶を飲み、矢島文夫訳の初版本を繰り返し読んだな。

そう、「大洪水」からの避難へのメカニズムをイラクで学びたかったのである。

 

 

 

で、トルコの路上でイラク行きを祈願し、「魔法のランプ」を買った次第だが、効果はまったく無かった。
で、今でも夢は何ひとつかなえてくれない。「魔法のランプ」を押しつけたオヤジの顔は、はっきり覚えている。昨日のごとくだ。

 

令和元年十一月六日

 

 

 

 「大洪水」

 

千葉でみたびの洪水ニュース報道。  うーん、辛いところだな。  森田健作知事の懸命な記者会見に打たれるものがあった。  

で、「洪水」→「大洪水」→「ギルガメシュ叙事詩」→ 古事記の海幸彦、山幸彦 → 青木繁と繋がった。  

夏目漱石にして彼を天才と言わしめたのだが、自らの情けなさを詫びる病床での青木繁の手紙は遺言そのものでもあった。


―――― 骨灰は序の節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、小生は彼の山のさみしき頂よ り思出多き筑紫平野を眺めて、
此世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨て、靜かに永遠の平安なる眠りに 就く可く候。
―――― そっか、今でいう「樹木葬」だったのだ。


令和元年十月二十七日

旧 「最近の事 」

 

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