荻須高徳画伯との十日間

1978年、豚児が生まれて四ヵ月後だった。

故赤木曠児郎さんからご紹介戴いて荻須画伯のアトリエに向かった。芸術新潮、週刊新潮、芸術生活の撮影であったが、考える余裕もなく、瞬きもせず夢中でシャッターを切ったのが昨日のようだ。

ちょうど「荻須高徳パリ在住50年記念回顧展」がパリ市主催で開催されておりご多忙な日々のなかであられたが、二十代の駆け出しカメラマンだった僕に対し、八十歳近い画伯にご丁寧に接していただいたのが、心からとても、とても痛み入った。 そんな画伯のお気持ちが、今の矜持なのである。

 

当時から記事も書いていたのでメモをとっていたが、それが見つからないのだ。
もう43年前のことだが、どこかに大切に仕舞っているのは間違いないのだが・・・・・。

荻須画伯の物腰をふくめ唇や指先の動きにいたるまで綴っていたのだが・・・・・無念の極みである。

 

 

画伯にお会いしてから10年後、シャガールのアトリエがあるサン ポール ド ヴァンスへ向かっている時に、画伯の文化勲章受章のニュースを知った。

 

現在の身近な表現手法である YouTube を見られたら、どう思われるだろうか。

「こんな表し方が古色蒼然となるのも、意外と近い将来かな。」

幻聴だろうが、お声が聞こえた。

 

————— ごろり寝ころべば、北麓のそら ————— (けいし)

 

「生誕120年記念 荻須高徳展―私のパリ、パリの私―」

折しも、各美術館で巡回展が開催されている。(2021/10/2 記す)

 

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 パリ在住の洋画家荻須高徳は、10月14日午前2時(日本時間同10時)パリ市18区の自宅近くのアトリアで制作中死去した。享年84。戦前・戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人であった荻須は、明治34(1901)年11月30日愛知県中島郡に生まれた。愛知県第三中学校を卒業し、大正9年画家を志して上京、川端画学校で藤島武二の指導を受け、翌10年東京美術学校西洋画科に入学した。

 同期に小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らがいた。卒業の年の同15年、フランスから帰国中の佐伯祐三を山口長男と訪ね、佐伯に鼓舞されてフランス留学を決意し、同年山口とともに渡仏した。パリでは佐伯の側らで制作を進め、当初は画風の上で佐伯の強い影響を受けて出発した。

 しかし、昭和2年佐伯没後は、ユトリロの作品に強くひかれる。翌3年からはサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品を続け、同11年サロン・ドートンヌ会員となる。この間、同6年にパリのカティア・グラノワ画廊で個展を開催したのをはじめ、以後ジュネーヴ、ミラノなどでも個展を開いた。

 また、同11年作の「プラス・サンタンドレ」がフランス政府買上げとなり、翌12年のサロン・ドートンヌ出品作「街角」がパリ市買上げとなった。同14年第2次世界大戦勃発にともない翌年帰国し、新制作派協会会員に迎えられ、同年の第5回同協会展に滞欧作が特別陳列された。

 同17年には陸軍省嘱託として仏領インドシナなどに派遣される。同23年、日本人画家としては戦後はじめてフランスへ渡り、以後パリを中心に制作活動を展開、同26年、サロン・ド・メに招待出品したのをはじめ、サロン・ド・テュイルリやヨーロッパ各地での個展で制作発表を行う。

 パリの街角を独自の明快で骨太な筆触で描き続けた作品は、広くパリ市民にも愛された。同31年、フランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章を受章、同49年にはパリ市からメダイユ・ド・ヴェルメイユを受けた。同54年、パリ市主催でパリ在住50年記念回顧展が開催される。また、松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力するなど、日仏文化交流にも尽した。

 一方、日本では同29年第5回毎日美術賞特別賞を受賞、同30年に神奈川県立近代美術館、翌年ブリヂストン美術館でそれぞれ回顧展が開催され、同37年には国際形象派結成に同人として参加した。
また、同40年、17年ぶりに一時帰国した。同55年、東京新聞紙上に連載したパリ生活の回想をもとに『私のパリ、パリの私』を刊行、中日文化賞を受けた。翌56年、文化功労者に選任される。
 同58年、郷里の稲沢市に稲沢市荻須記念美術館が開館した。戦後の作品に「サン・マルタンの裏町、パリ」(同25年)、「路に面した家・パリ」(同30年)などがある。

 葬儀は10月17日モンマルトル墓地で執行され、画家のジャン・カルズー、アイスビリー、カシニョル、ワイスバッシュ、シャプランミディをはじめ、本野盛幸駐仏大使ら在パリ日本人会など三百人余が参列した。

 また、没後日本政府から文化勲章が追贈された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和62・63年版(323頁)

 

 

 

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