第八話  英国の貴婦人
ロールス・ロイス
ロールス・ロイスの "貌" をつくる男
GREAT BRITAIN

 
rr16
古典的な美しさのラジエター・シェルは
ロールス・ロイスの貌

 ルビーの光沢、クリスタルの風合い、プラチナの威厳、漆の気品、象牙の典雅、絹の愉悦、白磁の温もり………美術品のような「シルバー・スピリット/E-AS」のボンネットに、橙色に染まった流れる木々が競いあうように映り、その前方中央には妖艶な女性の小像が優雅な陰影をつくっていた。
 ここちよい。たしかにここちよい。この花が咲き誇ったような舞いを見せる女性の名は「The Spirit of Ecstasy」。「フライング・レディ」の愛称がつけられている、そう、彼女が一九一一年、ロールス・ロイスのマスコットに選ばれたのである。

rr15
ラジエター部門の親方、デニス・ジョーンズさん

 この世でもっとも僕と縁がないと思っていたひとつに、ロールス・ロイスがあった。メルセデスやポルシェは憧れではあるが、ロールス・ロイスは憧れや夢の外にあり、見ることはあっても触れることすらないとかたく信じていた──というより暮らしのなかでの自動車として、ロールス・ロイスにはまるで興味がなかった。

 銀幕の大女優に恋をしても消耗するごとく、ロールス・ロイスに恋をしても徒労に終わるだけである。だが、しかしである。僕は今こうして工場からホテルまで一瞬 "ロールス・ロイスの人" となっているわけだが、まわりくどいいいかたをすれば、僕がロールスロイスのハードウェアの名声や数々の伝説、神話に膝をくっしたわけでない。
 いうまでもなく車の主役・生命はエンジンであるが、脇役であるが、しかしじつは重要な役目をはたし、ロールス・ロイスをロールス・ロイス以上に仕立てている──工業製品のなかに潜む無垢の手技──荘厳にして艶麗な車内装飾の美に強くひかれていた。

「ワシのつくっているのは、ロールス・ロイスの貌じゃ」
   炯々とした眼鏡の奥の眼が、柔らかい視線を手もとにおとす。古色蒼然とした窯から真っ赤に染まった鑞付ごての具合を、なめるように見つめるデニス・ジョーンズさんはラジエター・シェル部門の親方である。

 

rr1

rr14

古色蒼然とした窯は現在も活躍。 道具も立派な貌をもっていた

 

 彼はかつて乳製品工場の機械工として一五年も働いていたが、その腕を買われ一九七〇年にロールス・ロイスに入社。
   「ロールス・ロイスは完璧をもとめる会社でね。最初はやり直しの繰りかえし。ダメだ、ダメだといわれつづけたよ。でも師匠の腕に惚れていたから我慢もできたね。『もう一回やってみな』って何度もいわれるうちになんとかラジエター・シェルの形になった。結局一人前になったのは、ゆうに四年はかかった。」

 しなやかにな円弧を描き、鈍く光るクロム・ニッケル鋼の板に鑞ごてが忍びよる。デニスさんがいまおこなっている作業は鑞付──金属と金属を接着させる技法。金属のこなや破片を接合部におき硼砂をつけて加熱して融解接着する──で、金属細工のいちばんたいせつで高い技術をようするところ。
  大量生産の自動車工場では鑞付も電気やガスバーナーで行われ、町の鍛冶屋にあるような窯などは無用の長物だが、ここでは一九〇四年の創業以来、おなじ手法でラジエター・シェルが鑞付されている。まるで強い意志、高潔な品格をもっているようなこのこては、熱の伝導がよく冷めにくい、と親方はいっていた。代々受けつがれた職人たちの道具もまた、技術と賢明な人間的配慮に裏づけられたロールス・ロイスの貌なのである。

 

rr5
兄弟6人ともロールス・ロイスで働いている
座席を担当する革職人

rr7
熟練の木工職人はダッシュボードを担当

rr3
ロールス・ロイスの宝は職人たち。
彼らのプロフィールを紹介していた

 極上の桐箱にそうっとしまっておきたいほどのラジエター・シェルの組み立ての妙技は、人間の髪ほどの誤差も許されない、という。
   「三五パウンド(約一六キロ)あるこいつは、〇・四ミリが許されるアソびの範囲だね。厳格を求められる仕事だからこそ、エキサイティングで充実感があるのだ。ウム。ロールス・ロイス社で二五年も働けるのは歓喜につきる。」
と一肩乗りだす親方だが、彼の実見、実証、そして老練な手技で厚い裏うちがなされた満身の誇りは、天下のロールス・ロイスもものの数ではなかった。ロールス・ロイスというブランドは、すでに彼の裡には相対化された一級品でしかなった……ロールス・ロイスのエンブレムがついた彼の青い作業着からきりりと結ばれたネクタイが、辣腕の主のようにチラリとのぞいていた。

 ある程度の技術があれば、ひとつくらい完璧な品はできる、とデニスさんがいっていたが、問題は「常に完璧を求められている」という徹底性と純潔性。工芸家や芸術家にとっての"駄作"は傑作まえのアソビとしてまわりから許されても、"駄作"をみずから許さないのが職人の技と気迫なのである。
「完璧なモノをつくり続ける……労働と忍耐だね」  いつなんどきでも完璧な仕事をするように努力し、それが顧客そして自分自身を幸福な気持ちにさせてくれると、ほのぼのと、しみじみとデニス親方は話す。いままで僕のこころを打ってきた職人が、よく口にする言葉が「忍耐」と「労働」であった。 日本でもヨーロッパでも一度は死んだ言葉である。

rr10

染色したウッド見本

rr8

センターコンソールも工芸品となる

 
rr9
薄く切断されたウッドベニアの歪みを調整する

rr2
この紋所が目にはいらぬか!!!

 一〇〇年ほどまえ、デニス親方をさらに代弁したのが、アーツ・アンド・クラフト運動を展開し、ヴィクトリア時代の機械生産を批判したたウイリアム・モリスであった。

 「芸術の主たる源泉は、日々の必要な労働のなかにある人間の喜びであり、この喜びは自らを表現し、その仕事のなかに体現されていることを、私はなお重ねて言う。ほかの何ものも公共の生活環境を美化できないし、そうした環境が美しい時はかならず、それは、人間の労働がそのなかに喜びを持っていることの証しなのである。……それらが醜くした地球の美に対する侮辱なのだが、我々の町や住居がむさくるしく忌まわしいのは、そして生活のすべての付属品が見劣りし、陳腐で、そして醜くいのは、日々の労働において、こうした喜びが欠けているからである。……膨大な芸術をその手によって生み出さねばならない労働者たちは、生きるための商業システムによって支配され、最善の場合でさえも、すべての美的感受性と生活の喜びを失うことなしにはその健康を保てない、誰もが住みえないようなごみごみした醜い場所に住まわせられている……このような醜悪さのただなかに生活する人々には、人を認識することはできないし、その結果、それを表現することができない」(一八八五年発表『芸術における労働者の役割』) 
 とモリスは述べているが、この精神と魂は、膨大な量を消費し、環境破壊にあけくれる現代へのメッセージでもあった。

 
rr6
工場の佇まいも整然としていた

  「ロールス・ロイスで働いて、二五〇年になったよ。」
 デニムさんの仕事場は鍛治場の鉄と窯の熱気でムッとしていたが、ここは野性的で甘ずっぱいような革の香りがただよっていた。四帖半はある大きな作業台に、淡麗で艶やかで、しっとりとした牛革がひろがっていた。使い込んで無数のキズがある革切りバサミ。その表情は、百戦錬磨のつわもの趣で机によこたわっていた。

 「わたしは六人兄弟でね。そう、六人ともここで働いていますよ。わたしはもう三五年もロールス・ロイスにいますが、兄弟あわせると二五〇年もつかえているわけ。みな違う部署にいるので、兄弟で一台の車をつくっているようなものですよ。」

 
rr4
工場周辺には古い民家が点在

 エルメスやグッチの革職人を思わせるリチャード・ドブソンさんが、ほのぼのとした笑いを刻んだ。とてもやわらかい笑みだ。一五才からロールス・ロイスで働いているリチャードさんは、座席を優雅につつむ革の職人。香水王のコティが「香水はフタをあけるまえから香らなければいけない」といっていたが、ロールス・ロイスはイグニッション・スイッチをまわし、エンジンが始動するまえからロールス・ロイスであらねばならぬ。
 「自分がつくる座席が世界最高の車の一部になるのですからね。手入れさえすれば、わたしのつくる座席は三〇年、四〇年は使えますね。素材はコノリー社だから最高級品。文句なし。」とリチャードさん。

 
rr11
貴婦人の奥を覗いた気持ち、うっとりとする車内だ

 一八七八年に創業し革製品を扱うコノリー・レザー社は、エドワード七世の戴冠式のために革ばりの椅子を制作したロンドンの老舗で、ロールス・ロイスが最初に開発した車以来、現在も革の供給を担当している。もちろんコノリー社もロイヤル・ウォラントのホルダーである。
 ロールス・ロイスに使われる牛皮はデンマーク産で、強度、厚さ、耐久性、含有水分などが厳密にチェックされた極上品のなかの極上品。デンマークの牛皮は牛そのものが巨体であるだけではなく、電気式フェンスが普及しているため、鉄条網によって牛の皮膚に傷がつくことが少なく、また気候の影響で害虫も少ないことから虫食い跡が皆無という。さらに角を伐っていることも、皮膚を無傷にまもっている結果となっている。

 
rr12
18年ぶりの新モデルの「シルバー セラフ」

 一台のロールス・ロイスには約二四頭分の牛皮が使われるが、裁断、縫製、仕上げはすべてが、寡黙だが広大で緻密な手作業である。
 ロールス・ロイスの典雅な居住性のあらゆる細部と全体を牛皮のなかに結晶、凝縮させたリチャードさんのささやかな自尊。それは無名の職人の意地と威厳である。
 「正しくなされしもの、ささやかなりしとも、すべて気高し。」
 エンジニアにして職人であったヘンリー・ロイスの言葉だが、自分の手技と心のなかに宝ものをつくる──それは肉体的老いとは無縁の輝きをはなつのだ。

 
rr13
スコットランドの風を切る「シルバー セラフ」

 
 

【 協  力 】

コーンズ・アンド・カンパニー・リミッド
東京ショールーム TEL 03-3798-5171

ロールス・ロイス http://www.rolls-royceandbentley.co.uk

 

Kazarikei

 

merci

ご意見、ご感想、リクエストなどをお待ちしております。

 
世界の職人篇  世界の陶磁器篇  欧州旅籠篇
クリックしてください