第四話  クリスタルの王者 バカラ
FRANCE

 
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ロレーヌ地方にバカラ村がある

 室温は四〇度以上はあり、一瞬立ちすくむ灼熱の世界だった。
 一五〇〇度の窯から取りだされた燃える玉(種)が、まるで絵筆の動きのように線を描いている。こちらの窯、隣の窯、そしてあちらと同じ燃え上がる赤い玉が幻想的に工場内を浮遊しているようだ。
その中で、同じ作業を何度も繰り返している職人がいた。

 

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パリのバカラ美術館では往年の名作を展示

 案内役のミッシェルさんの説明によると、今製作しているているのは一八七八年のパリ万国博覧会に出品した『サービス ドレープカット』デキャンタの復刻版という。
 このシリーズは同博覧会でグランプリ――ナポレオン一世〜三世の執念でもあったパリの万国博覧会は世界のイベントであり工芸美術に大きな影響を与えた。一八五五年がその一回目であり次回の一八六七年、一八七八年、そして一八八九年、一九〇〇年とバカラはグランプリを受賞――を獲得しており、バカラが一世を風靡した記念すべき作品という。
 あとで完成品を見せてもらったが、絹のドレスのような風合いをもつドレースカットがとても美しい。蓋の部分のブリリアンカット、帯状に並んだスターカットなどは成熟期のバカラならではの名器である。

 

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ガラスの命が音をたてて燃えていた


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エッチング(酸腐食法)のための
文様が描かれた耐酸性紙


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耐酸性紙を慎重にグラスに被せる

  一.五メートルの吹棹の先に丸く付いたクリスタルの赤い玉を吹いて直径を拡大する。職人の頬と同時に宙にあるその赤い玉もプゥーッと膨らんでいく。そして素早くブロー台に吹棹を乗せ、遠心力を使いながら吹棹を回転させながら成型してゆく。

 ガラスの表面をなめらかにする作業に入った。燃えていたクリスタルは、まだ鈍い赤味を残していたが、彼はこて板を使わず古新聞で微妙な調整を行っていた。
 それから二、三分もするとクリスタルは自らの美しさ知っているかのように、その澄んだ艶やかな肢体をあらわにした。

 「棹吹き一〇年、カット六年」といわれるこの世界。彼らは、たんに吹くだけではなくデザイナーの感性はいうまでもなく、歴史、伝統の重みまでもクリスタル上に表現しなくてはいけない。
 彼は一息ついた。汗ばんだ背中が「男」を主張している。エヴィアンのボトルに口をつけ、一気にゴクリと飲む。

 「クリスタルに触るのが好きだった。窯の中で溶けたクリスタル、固まったクリスタル、プロー台で冷えかけてきたクリスタル、カットされているクリスタルとすべてが好きだったね。」と、彼はまた窯へ向かった――。

 

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取材のあとにナンシーに宿をとった

 

 パリから東へ四〇〇キロ、ロレーヌ地方の寒村だったバカラを一躍有名にしたのがモンモレンシー・ラバルという坊さまだった。七年戦争で財政困難にあえぐフランスを憂い、ラバル司教はルイ一五世に請願状を送った。曰く――
 ――わが国は大量のボヘミアのガラス製品を輸入しております。この結果国家再建の資金が国外に流れております。なにとぞ、ボヘミアを上回るガラス工場を――
という具合で戦争が終わった一七六四年にバカラ・クリスタルの始まりであったガラス工場が創設された。ちなみにバカラ(BACCARAT)の名はローマの寺院(BACCHIARA)に由来し、この寺院の守護神は酒の神であるバッカス(BACCHUS)である。バカラのバカラたるゆえんはその透明度にあるクリスタルにあるが、ほかのガラスと決定的に違うのは鉛(酸化鉛)の含有量。バカラの場合はその含有量が三〇%だが、一〇%でもクリスタルと呼んでいるメーカーは数多くある。しかしクルスタルの発祥の地は残念ながらバカラではなく、イングランドの小さなガラス工場であった。

 

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グラヴュール技法の傑作
バカラ美術館蔵
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緋色被せのグラスは
うっとりとする輝き
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アールヌーボーの代表作

 

 バカラに工場ができる前の約一〇〇年前、つまり一六七四年にガラス職人たちは坩堝の前で驚嘆の声を上げた。
「まるで水晶(ROCK CRYSTAL)だ」 この奇跡に近いクルスタルの誕生は、ガラスの熔解時間を短縮するために、ここの工場長でもあったジョージ・レイヴンズクロフトが偶然酸化鉛を混入したことに始まったという。これをきっかけに彼の研究にも熱がはいり、珪石を主原料としてアルカリソーダ、石灰、硼砂(ほうしゃ)などの媒材を考え現在のクルスタルにいたったのである。バカラの生みの親が先の司教であったなら、育ての親はピエール・A・ゴダール・デマレである。彼はラバル時代から数えて五代目の経営者。一八二三年に就任したとき、デマレは「完璧性を維持するのが何よりも重要」と経営哲学を職人の前で披露した。
 その連綿として流れる理念を、今もがんとして護りつづけているのがMOF(MEILLEURS OUVRIERS DE FRANCEフランス最優秀職人)を獲得しているバカラの職人たちであるのだ。

 

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1878年のパリ万博に出品した作品

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妖しいまでの輝きに息をのむ

 カット部門では、一九四八年に最初につくられた《フルーツボール》が規定作品となっている。このオリジナルはパリのバカラ美術館で拝見したが、器全体が発光源のように輝き、ダイヤモンドをちりばめたような眩い幻影がただよい、まるでまぼろしそものだった。
 技法もたしかにダイヤモンドカット・ブリゼと呼ばれるダイヤを粉々にしたようなものを中心に、清涼感から重厚感までが同時も求められた華麗なる大作であった。
 灼熱の世界から別棟の石造りのアトリエに向かった。

 クリスタルが装いを整えるこのアトリエでは、回転砥石で巧緻精妙を極めるカッティングが行われていた。粉塵を抑える水が途切れなくクリスタルの表面を流れ、橙色のタングステン光がキラキラと輝いている。複雑なカット面は、すでに優美にして幻想的な世界を創りだしていた。
 この作品は《メディチ風花瓶》で一九一〇年作の復刻版。ルネッサンス時代のフィレンツェのメディチ家にその名をとったが、繊細な文様と男性的な力強いカットといい、ミケランジェロの均整美を連想させる重厚な作品となっている。この作業、すこしでも間違えばこんな大作でもくず箱入り。

 

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ナンシーオペラ劇場のシャンデリアはすべてバカラクリスタル

 

  次ぎのアトリエではシャルル十世――一八二八年、国王シャルル一〇世がバカラ村を訪れ、記念してつくられたまさに「王者のクルスタル」――の緋色被せリキュールグラスが完成間近だった。この色被せ技法は、僅か一ミリの誤差をも許さない絶妙なカッティングが要求される。
 「一五〇年前とおなじ手法で、まったく同じものをつくれるなんて、やはり興奮しますよ。カットはたしかに一ミリの誤差も許されませんが、それはわたしが小さいころから細密画が得意だったこともあるのでしょうか」
とピアスが似合うのは一六才からバカラで働いているジェラール・ベルステンさん。亜麻色の髪を後ろで束ね、すうっと伸びた鼻筋と繊細な美しい手に、男の僕も思わずゾクッとするほどで、およそ職人の印象はない。が、彼は二五才の時にカッティング部門でMOFを最年少で受賞している三児のおとうさんでもある。

 

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老練なグラヴュール技法を披露してくれた

 「もちろんカット職人にとってはホイール彫刻技法、グラヴュール、エッチング(酸腐食法)などの技術は大切ですが、やはり気持ちの集中とクリスタルへの思いやりでしょうか。最後の品質検査では約四〇%がキズなどで捨てられますからね。」

 四〇%とは驚きの数字だが、これも「完璧性を維持するのが何よりも重要」というバカラの誇りなのだろう。

 カットの仕事は当然神経を使い目の疲労や肩こりも激しい、と四二才になったジェラールさんはこぼすが、三人の子供さんと奥さんが何よりの回復剤となっているらしい。三十分ほど彼の仕事ぶりを視ていて、巧緻精妙のなんたるかを教えられたようだ。

 

 グラスが外光を巧みにとらえ、新たな彩りでバカラ色を放っている。手にとってみると小ぶりながらもずっしりとした重量感もあったが、透明な音楽が聴こえてきそうな器であった。
 器は眺めたり手と唇だけで触れるのではなく、もしかして躯全体に纏うものなのかも知れない。
 バカラの大人の愉しみが少しわかった――。

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25才でMOFを受賞したジェラールさん

 

Kazarikei

 

merci

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