零式艦上戦闘機 我が家上空にうつくしい栄誉の白線が引かれた1ヵ月前の5月29日。墨田区の慰霊塔(スカイツリー)方向から大手町へ向かっているのだろうか。ブルーインパレスの感謝飛行に涙腺崩壊だ。 |
生き方と逝き方 向島の料亭で感動の風呂敷をご披露いただいた。 「これでよし 百万年の かり寝かな」
「そうだよ。ぼくたちは葉っぱに生まれて、葉っぱの仕事を全部やった。」とは「葉っぱのフレディ」。いつだったか、図書館で流読み。でもこのフレーズだけが妙に残ったのだ。葉が散ることは土となって次の世代へ、ということなのだろうな。 |
英霊に献杯 桜木に張り付いた柔らかい苔を撫でる。中指の耽溺だ。 |
令和二年六月二十九日
血まみれメアリー 「こんな時間にすみませんが誰か泣いてませんか。気になって・・・」深夜の2時ころだったろうか。隣室の編集者からの電話だった。耳を澄ませば確かに女性の泣き声。時々うっそうと佇んでいる木々の葉が擦れ合う音が不規則に部屋に忍び込んでくる。妙に目が覚め外に出た。夏の夜霧がひそひそと青く流れる古い外壁にぶら下がっている半ば朽ちかけた配管らしきものが室内に繋がっていた。なんと「泣き」の原因がこの廃管(?)だったのだ。
と、以前書いた原稿。 クリストファ・リー(マント裏地の赤がキマッていた。)の「帰って来たドラキュラ」のロケをはじめ100本以上の映画のロケ地として使用されたブリティッシュホラーファンの聖地になっているのがこのホテル、オークリー・コートなのだ。
テムズ川を望む広い庭園を眺めながらのハイ・ティ の原稿書きだが、このマナーハウスには紅茶よりブラッディ・マリーがよく似合うのだ。ほとんど呑まないが、ウオッカをベースにトマトジュースを注ぐだけの簡単なカクテル名の由来が興味を引く。
————— 16世紀のイングランド女王、メアリー1世の異名に由来するといわれている。 メアリーは即位後300人にも及ぶプロテスタントを処刑したことから、「血まみれメアリー」(Bloody Mary) と呼ばれ恐れられていた。(Wikipedia)—————— |
紅茶はまったく戴かないのでどう書こうか難儀しているが、「襟足がうつくしい給仕が・・・・・」あたりから書き始め器をからめ・・・・・というよう展開しか思いつかないな。 |
圧巻はこのネオ・ゴシック様式のサロン。夕暮れともにシングルモルトとエスプレッソだ。長期滞在したいホテルでドラキュラ、女性の泣き声など大歓迎だ。 |
令和二年六月二十一日
日常の茶飯ごと 見慣れた風景も少し視点を変えれば、雨粒だってなんにでも見えるから不思議だ。そう、詩情豊かに語ったところでもこの粒が巨大な量になれば大暴れるするに違いない。さらにさらに視点を変えれば日常の雑務にもたいせつな事柄が潜んでいるのだろう。 久しぶりに「茶の本」を読み返したが、一貫しているのが、日常の茶飯ごとを「美」に高めた日本人の本質を高らかに謳っているのだ。思わず膝を打ちたくなった。「生の充実」なのである。 平凡であること、普通であることに徹するのは至難なところだが、シーツの皺の描写を芸術に仕上げる映画監督などの表現者は、想像を絶するアマチュアイズムの体現者なのかも知れない。 |
令和二年六月十三日
日常の1コマ1コマ 通常3週間で撮影を終える ところを1週間で撮った若きころだった。K画報社の出版だったが、さくらファンというか信者に近い読者が全国にいるので、この料理本は売れに売れたな。そのフイルムが急遽必要になったが、モノは夏の仕事場にしかない。デジタル化を怠ったのが悔やまれるが、知人に頼んで宅急便と相成った。(デザイナー氏にクレームだ。 見開き処理を何とかして欲しかったなぁ。本をスキャンしたけどノド部分が・・・・・) その本を久しぶりに見ているが、さくらさんの日常の一コマ一コマも我が写真機に。 とても丁寧なご自宅での暮らしに触れさせていただいたのが、昨日ののようだ。 |
喰ったぁ、撮ったぁ。 およそ100皿ほどのお料理。 喰い盛りのカメラマン3名、編集アシスタント約2名。すべて胃袋の奥へ奥へと消えていった。それにしてもさくらさんのキッチンでの手際が凄かったな。まだ新人だった役所広司さんらが、彼女の家に通っていたらしい。 (ちなみに役所さん、僕がよく使っていた区役所番町出張所に勤めていた、と後で知った。) そうめんを細かく切り、栗のトゲのようにした肉団子「いがぐり揚げ」など、印象深く旨かったな。 |
令和二年六月六日
写真整理 思っていない時に、懐かしい写真が顔を出すことは誰でもあるだろう。我が家の初代ビーグル犬ポチ(高かったぁ)がいるではないか。忘れもしない24歳の時だ。彼に一瞥され、その場で我が家のワン公になった。 |
令和二年五月二十九日
中空土偶 2007年、北海道唯一の国宝となった縄文土偶。函館市が愛称を一般公募した。 で、名付けのご褒美は何だった、と以前問うたら、 ま、いっか。 |
令和二年五月二十六日
嘉納治五郎の背負い投げ 週二回ほど、豆腐屋に往くのだが、やっかいなのが長い急階段だ。「鼠坂」と呼ぶ。小説には階段の脇には荒稼ぎした品のよろしくない豪華な家が描写されている。確かに現在も豪華な家が建ち並んでいるが、「品」はあるような佇まいではある。
「小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ……人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にて挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい……」 (森鴎外「鼠坂」)
「毎日一万歩は歩け。」とは先輩からの忠告だが、この急階段はすくなく見積もっても三千歩の消費はあるだろうな。 なら、あと七千歩。で、黄門さまの弟さんの庭園跡である春占園へ。(タンポポ、ドクダミを活けてみたが、これが続けば「道端研究家」になれるな。) |
粛々と自粛 泡は外へ向かったが、グラスの内へ奥へと自分を仕舞ったGWだった。 それにしても懐かしいカメラマンSちゃんとの会話が面白かった。「暇だ、暇だぁ」からはじまり、お互い飛沫合戦、自慢合戦だったが、こんな仕掛けで仕事の 新天地 をこじ開けていた。なるほど、な。 |
令和二年五月八日
菖蒲と尚武 菖蒲湯は毎年楽しむが、今年の気分は尚武だ。欧米では武漢騒動を「戦争だ。」と認識している。では「戦犯」がいるだろう。なら「国際武漢菌裁判」があってもおかしくないな。 過日、三鷹市の禅林寺で森鴎外の墓参りして思ったが、ドイツで当時最先端の細菌学や衛生学を学び、以来、食品の菌にとても関心が高かった彼は医師、文人というより尚武の心をもった侍であった。今の大騒動を何とコメントするか興味があるところだ。 真鯉と緋鯉のコントラスト、うん、なかなかよい。 |
令和二年四月三十日
メッセージ 1983年に撮影したウイーンのホテルパレー・シュヴァルツェンベルグでの朝食の原稿書き。テーマはオムレツ対決だ。味はどのホテルもほとんど同じだが、キノコ、チーズなど具に工夫をしているあたりを思い出しながら書いている。
「圧巻だったのはサイドメニューのアスパラガスのヴィネグレットソースだ。」などなどと当時のメモを探っていたら、この年に新発売されたカセット部とスピーカー部が分離したラジカセのことを細かくメモっていた。
ホテルの部屋ではお気に入りの音楽をラジカセで。そして外出時はカセット部をポンと外してウオークマンとして。日本人が考えそうな商品だな、と半ば感動しつつメモっていた。
ところで持ち運びの音楽だが、童謡も数多くテープに録音していた。メロディは柔らかく優しいのに、歌詞が恐ろしく脳天に風穴をあけた一曲だった。当時の自分を重ねていたのかも知れないな。 思えば、貴族風の調度に囲まれながらの不思議な時間だった。 今の日本列島、日本人は何を忘れたのだろう。
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令和二年四月二十四日
「手乗り」 「カラスの赤ちゃん」は 海沼實 が1941年に作曲し、戦後にヒットした日本の童謡だ。毎朝向かう境内にある歌碑に菜の花を添えた。
海沼實が護国寺に音羽ゆりかご会を創設(セピアの集合写真は創設のころ)してからは、ご存じ「お猿のかごや」「あの子はたあれ」アニメでは「ゲゲゲの鬼太郎」「グレートマジンガー」「バカボンのうた」「ガッチャマン」「忍者ハットリくん」「パーマン」など でヒットメーカーとなった。 ところで、今、我々にとっての「赤い帽子」「赤い靴」とは何なのだろうか。武漢ウイルスを契機に壮大な社会的政治的な実験が世界的になされているのかも知れない。 境内に僕と寺友S氏に懐くビロードのような光沢がうつくしいカラスが一羽。 |
令和二年四月十五日
桜隠し 岩手がまだゼロだ。やはり「遠野」は、気高いのだろうか。 だが、このたびの「菌」なるものは、「地震、雷、火事、親父」ではなく、作為、人為、否、詐為の臭いがプンプンだ。 だったら駆逐しようぜ、と相成り「春の雪」を楽しみつつ「桜隠し」をご本尊として祈り狂ったのである。 |
令和二年四月一日
武漢ウイルス退治 どうも奈良、京都の佛さまは優しすぎるのか。 武漢菌に惑わされる世界は、国際政治上のまさに戦時なのである。 そう、対峙は退治だ。 |
令和二年三月二四日
東北学の余白 ある方に「東北学」というジャンルを教わった。図書館で8冊ほどを借り、その中で「東北学/いくつもの日本へ」を購入した。というのは、扉を飾っていたのが内藤正敏の写真で十代のころより内藤正敏の仕事にとても興味があったのだ。オドロオドロしい写真だけ撮って生活ができるのが不思議だった。 こんな疑問、今思えば「東北学」からほど遠い十代だったのだろう。 東北といえば青森の世界人、棟方志功そして三内丸山縄文遺跡程度だったから、(あっ、郡山の薄皮まんじゅうもあったぁ)ゾクゾクするような世界に出会ったようで興奮してきた。 JAZZ繋がりだが、東北学にはアート・ブレーキーのドラムかな。 |
触れる 上記目次はネットで手に入らなかった「東北学への招待 京都造形芸術大学/編 」(角川学芸出版) の目次だが、興味深い項目の連続だ。 学ぶというより「触れる」ことが自分に似合っているかもしれないな。 じつにじつに地味な地方・地域だけに、西にはない不思議な原理・原則で満ちているように思えるのだ。 ある偉い坊さまが「此処を掘れば泉が湧く。」と。ポチは「ここ掘れ、ワンワン。」だった。 なるほど、「東北学」も足下か。 |
令和二年三月一日
HINAing JAZZ 小学生のころ、二度ほどひな祭りに誘われた。 雛人形やチラシ寿司の記憶はまったくないが、今思えばアメリカンドックのような巨大なソーセージが強烈な印象だった。おそらく初めて喰ったのだろう。オフクロにその感動を興奮しながら伝えたら完璧に無視されたな。 |
令和二年二月二十五日
Early Morning JAZZ 「朝五時。窓を開けると無遠慮にエッジが効いた冷気が入り込む。」 と前回綴ったが、その様子を動画で撮った。 題して「Early Morning JAZZ」だ。気持ちは「Early Morning CHAMPAGNE」なのだが、諸般の事情で・・・・・ BGMは「チェット・ベイカー」/ チェットだが、その中で「 Early Morning Mood」という曲がある。もう30年以上前に輸入盤を購入したのだが、いわゆる音楽著作権だ。 一般社団法人日本音楽著作権協会に問い合わせたら、個人の場合、月額使用料は一曲150円/月で、今回のように「限定公開」の場合は明確な回答がなかった。おそらく法整備が出来ていないのだろう。 ま、写真とはまったく別モノが、音楽だけで楽しむ動画(BGV)なのだと再確認した。 |
令和二年二月十八日
洗顔前の愉悦 朝五時。窓を開けると無遠慮にエッジが効いた冷気が入り込む。 で、コーヒーを淹れ一服。 写真機は三脚に常時セットしてあるので、空の塩梅で撮る。 雲、風、月、明けの明星、朝陽のご機嫌で一喜一憂。まるで今日の運勢を占っているようなのだが、自分の目の高さで写真機に閉じ込めることが出来るのだ。 15分ほどだが、「行」に似たある種の達成感に繋がるから不思議だな。 |
風を撮る もう35年ほど前か。VHSカセットレコーダとデカいビデオ撮影機の時代が懐かしい。今はタバコケースほどのサイズになっちゃった。それでいて、画質は革命的に飛躍し、4K画質も当たり前になりつつある。 風を撮るのもけっこう充実感があるこの頃だ。木の揺れ、雲の動きなどメモ帖に書き留めるように撮るのだ。今日の風に自分を置き換えたり、こちらも一喜一憂。揺れる自分を弄んでいるのだ。 生の充実なのかな。 うん、なかなかよいのだ。 わが心 濁せば濁る 澄めば澄む 澄むも濁るも 心なりけり(木喰) |
令和二年二月十日
三度消された 世界地図から三度消されたポーランド。 「誇りは仕事の絵付けとショパンよ。」 ポーランドはポズナニのコウオ窯で働く赤毛の陶工ヘレナさんの笑顔を思い出したのをきっかけに、某社の「営業企画」に強引に参加した。僕はその衝動にとても満足している。ショパンの手垢、足跡そして叫びと囁きを辿って往きついたのが40年ほど前の聖十字架教会。教会では観光客が肩を競い合うようにある柱に向かっていた。 みな神妙な面持ちだ。 「このなかにショパンがいるの。」通訳嬢は、頬を紅色にほんのりと染めていたようだった。 |
極私的空間の肖像 檜専門の某日本建築関連のクライアント向けのレジュメの写真選び(80点余り)に燃えに萌えている。 題して「極私的空間の肖像」。 家族、学校、会社、社会、国家と組織の大きさは問わず、僕のコンセプトはマイホームでの逃げ道、避難場所(それらを世間では癒やしとも云う)の構築だ。 かつてはトイレ、バスルーム、あるいはマイカー、各人の部屋だったが、日常誰もが眼に入る共有スペースであることが大前提だ。 そう、田舎の道端にたたずむお地蔵さんが分かり易い。
ショパンの心臓から始まった「営業企画」だが、おばあちゃんが籠もっていた仏間も「供養」という逃げ場だったかも知れない。そうそう、「信仰」も手段なのであってそれがプロも含めて「目的」になっちゃってる人が多いな。 いわゆる「道」のつく精神世界は、どっか怪しいところがけっこうある。
ビールを呑み干した後のグラスの泡やタラークの一文字も、僕にとっては今日の極私的空間の肖像なのである。 でも攻めても攻めてもの一文字さえも、逃避行に繋がっているのかも知れない・・・・・
自分の奥の奥に仕舞っているモノに興味があるこのごろだな。 そっか、逃げるが勝ちかぁ。(相手が自分であるだけに厄介な策でもあるのだが。) それにしても月照さんの 逃避行 って美しい。 |
令和二年一月二十九日
一〇八 の祈り フランスのシャトーを貸り切ってのお茶会、マイセンの器で茶懐石などなど、様々な企画が再生しつつある昨今だ。 で、「春夏秋冬 餅レシピ108」が動画処理で復権だ。子役として美空ひばりと共演したそのお声には、思わずほっとする。本は現在はKindle版のみだが、ノミの涙よろしく律儀に印税も入るんだぜ。 著者の斎藤宗厚先生は七年前にお隠れになったが、どっこい 「寫眞文庫」では、よくお会いするのだ。 |
令和二年一月十八日
越智貴雄って凄い男だな。
「出口のないトンネルの中で」「元気に振る舞うことに疲れ、次第に自信がなくなり絶望した。」
事故で左大腿部を切断したY子さんの義足が、写真集の表紙になった。
「自信をなくした方には、この写真集を是非見てほしい。」ともY子さん。
屋久島登山も行いハイジャンプの世界記録保持者のMさん(写真左)は2020東京ではメダル候補だ。
「うれしくて泣いちゃった女の子もいましたよ。 」
「 義足に血が通うまで 」義肢装具士の臼井二美男の優しくも重い言葉だ。
逞しく走る義足のなでしこアスリートたちに応援の2020東京だな。
越智貴雄カメラマンは写真を通して菩薩道を突き進んでいるのだろうな。
ところで五体満足って何なのだろうか。あらためて考えてみた。
木喰の 衆生済度の 一念は 身の困難も いとはざりけり
令和二年一月十三日
鑑賞用の写真などほとんど無いが、唯一四十年前 から額装しているのが、このモノクロームのワンカット。題して「玉、笑う」だ。
一九七六年にパリで撮ったジャン ピエール アロー氏は、現在も活躍なさっておられるようで、昨年某代理店から「若いころの・・・・・」とのオファーがありポジフイルムを二点探し出した。
二〇年前、かなり無理してブローニーサイズのフイルムスキャナーを購入したが、十年ほど前にはドライバが更新されずスキャナーは惰眠中。
やむえずカメラでデュープと相成った。幸いシャープネスを含めた画像処理で名刺版ほどのプリントが可能になった。
写真右は一九七六年に撮影。 左は現在のジャン ピエール アロー氏(WEB転載)だが、四〇年以上経てもあまりお変わりにならない。
ミラーとその上の額絵はまったく配置が同じだ。
体型もさることながら、モチーフへの内なる圧倒する熱量が男の美しさを「今」にしているのだろう。
こんな素敵な出会いがあったのも、現在も活躍しておられるパリの 赤木曠児郎さん とのご縁があったからだ。
赤木さんは昨年も「八十五歳記念 赤木曠児郎展 」を日本橋三越 で開催された。
赤木さんのご紹介でル・サロン、サロン・ナショナル・デ・ボザール、サロン・ドトーンヌ、サロン・デ・アンデパンダン等、「美の専制者」たるパリ画壇の会長、長老のアトリエ巡りは四十年以上前のことだが、昨日のごとくである。
赤木さんのアトリエで戴いたオニギリ、忘れられないな。
令和二年一月九日
五日つづいた一時間遅れのご来光。白椿の陰影をしばし眺めていたら僕の脳天を 「風 」が抜けていったようだ。
元旦に記した光悦と宗達の夢のような会話を再び。
「この蕾の座りだすなあ。言うたら、畳の上の茶碗みたいやなあ。」
「それだけやない、腰の上と下の色の加減がまたええやろ。木の一番ええやつを選ってきたよって。」
たわいもない談義を、光悦は形にしたのだ。 日常の一つひとつを紡いで往く愉しさを実感した正月かな・・・・・
令和二年一月五日
またまた、またまた、またまた年が明けちゃった。
「加茂本阿弥」と呼ばれる白椿は毎年撮っているが、友人から「月照」という美形を極めた白椿のことを教わった。
で、近所数軒の花屋で探したが白椿そのものが無い。ネットで検坊したら、なんと椿の種類の多さには驚いたな。
それにしても、コレって何? a gnes b. のコォト が買えるではないか。
「これ土産や」
枝についた蕾だけの白椿を宗達が差し出した。
「そらおおきにだすけど、なんぼ言うてもこら早すぎだっしゃろ。花を待ちきれまへんやろ。」と光悦。
しばし光悦 ・・・・・ 「ウム」
「この蕾の座りだすなあ。言うたら、畳の上の茶碗みたいやなあ。」光悦が続けた。
「それだけやない、腰の上と下の色の加減がまたええやろ。木の一番ええやつを選ってきたよって。」
宗達が得意になったのだろう。
琳派が誕生した瞬間だった。
このやり取りで命名されたのが「加茂本阿弥」という毎年撮る白椿だったのだ。
(平成20年に東博で開催された「大琳派展」の図録は、僕の宝なのだ。)
そうそう、「加茂本阿弥」だけど容貌は「月照」に負けるが、ま、いっか。
宗達の「腰の上と下の色の加減がまたええやろ。」 とは、椿の白と葉の濃い緑なのだろう。
光悦は蕾を茶碗、葉を畳に見立てたのだ。自在な発想が世界人の所以なのだろう。(元旦のご来光七時十五分 撮影)
二人を主題とした小説でも映画でもこの世にないのかな。 ツーショットの極めつけだ。
昨年の正月に撮った薄氷に遊ぶ「加茂本阿弥」
令和二年一月元旦