凛乎として50年が経った

乃木神社神職の笙、笛の清澄な音色がうつくしい50年祭、鎮魂式だった。

「道義的革命」なのである。 

「あと三十分、最後の三十分待とう。」とさけび終え、東部方面総監室に消えた・・・・・

確かに血の結末だったが、しかし、彼は血をもって終わるのではなく歌をもって終わる国であることも教えてくれた。

 

HNKの特番「三島由紀夫 50年目の ”青年論 ”」では、『命売ります』が30万部売れ、若いアーティストたちにとって今もその影響力が衰えることはない、と伝えていた。そう、あの東大全共闘の元「闘士」さえもベタ褒めの放映だった。

 

で、 『三島由紀夫の世界—戀と死—附病跡学的考察』 なのである。

松本市の歴史ある病院の 理事長(学生時代の仲間)が、900ページに及ばんとする大作を出版した。50年かけての構想は、一級品の第一次資料でもあり「三島学」なのである。

氏の「病跡学は全人間誌」との本書を貫く基本姿勢は、独特の訴求力があり深い感銘を戴いた。

それにしても、この重量感。

我が家では、あたりを圧するほどのズシリとした調度品でもあるのだ。

 

今日は「待つ」ということを、マジメに考えた日だった。

 

 

淺岡敬史

淺岡敬史

 

50年間で、お亡くなりになった方々

僕たちが主催している追悼会を支えて戴いたみなさま。

上記、関 健氏や諸先輩をはじめ、学生時代に一人ひとりにご挨拶に伺いました。中川与一さん、越路吹雪さんにお会いしたかったな。

令和二年十一月二十五日

淺岡敬史

 

浅岡

ちゃっかり坊さま

幼少のころからの友人に坊さまがいる。

彼の影響で仏教学部に籍を置いていたことがあったが、坊さまの世界に飽きたので今の職業を選んだ。神社仏閣の経営難のことは広く知られているが、それを克服する智慧もさまざまだろう。

 

で、でなのである。その知人の寺の立地がリッチになのである。函館は五稜郭。その五稜郭の真ん前にドンとあるのが彼の寺で、土方歳三信者的歴女が群れをなして訪れるのだ。お土産、記念品を競い合うように買い求めるのが観光客の常なので、彼の寺の「御朱印」も・・・・・となるわけだ。

 

新発見された土方歳三の借用書写しと「御朱印」なるものが送られてきたが、 ちゃっかり土方歳三と新撰組の旗も・・・・

お布施は、したくないな。汗笑)

令和二年十一月十五日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

午前八時と午後四時

朝夕を計算して窓の位置を決めたのだが、ここ10年写真のように観音さまには陽が射ささなかった。

そっか、この光は11月から3月あたりだけなのであった。

特に熱心な仏教徒ではないが、仏像や梵字の造形には名状しがたい憧がれが満ちているのである。若い頃、中国奥地を旅したが、振り返る過去がたくさんあるのは、嬉しいことだ。

シャッターが僕の指先に広がった。

令和二年十一月十一日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

早朝からカラヤン、ショルティ、小澤征爾。「運命」をガンガン

なんとなく悶々、なんとなく淋しく、なんとなく哀れな早朝だった。

で、朝六時。

炬燵でコーヒーを飲みながら、第五番「運命」を目いっぱいボリュームを上げ、なんとなく盛り上げようと極めつけの打線を組んだ。

二番はトイレ、三番は洗顔、四番は5000歩、五番はモミジ撮り・・・・・九番はビールと相成った。

   (控えの補欠は、モヤシたっぷり塩ラーメンかな。)

どうだろうか。

またまた、なんとなく「ジャジャジャ ジャーン」が年内までつづきそうである。

 

令和二年十一月六日

淺岡敬史

 

 

 

淺岡敬史

 

山奥の「軍艦島」

吾妻鉱山の発見は、明治41年の晩秋にまで逆上るが、昭和35年の山元の世帯数は292戸、人口は1318名を数えるなど空前絶後の有様であった。— 中略—  しかし、昭和38年以降は、不況による価格の低迷、加えて石油精製の際に排出される“回収硫黄 ”のため、硫黄の採掘は衰退の一途を辿り、遂に本鉱山も昭和46年閉山となった。(松島榮治シリーズ(百二))

 

 

「朗読」ではなく「読みきかせ」なのかぁ

 

絵日記の動画を創りながら、幼稚園の先生 の「読みきかせ」 を思い出した。

うーん、「痴人の愛」「春琴抄」「仮面の告白」でもなかったことは確かだが 汗笑)、覚えている筈はないな。

「なんとなく淋しそうだね。」とボクに向かって云ったのは、昨日のごとくだ。

万華鏡か極彩色の絵屏風を思い浮かべていた記憶がぼんやりあるけど・・・・・

年老いて、無意識を観るってことなのかな。

令和二年十一月五日

淺岡敬史

 

 

 

淺岡敬史

 

N谷園への営業企画に飛び込みで・・・・・。

どうよ、湯豆腐に囲まれた鉄瓶には熱燗をジッとこらえて「御社の吸い物」よ、と訴えた。

「お客様 お問い合わせ」からの早朝闖入なのである。

若い頃は、いわゆる「売り込み」はしたことがあるけど、「飛び込み」は始めてだ。

当然、無視はされるだろうけど、その無視加減に興味があるところだ。

四代目ポチに見せびらかしたが、彼もまたそのうつろな目線をよく見れば、かなり無視っぽいな。

それにしても、熱々の豆腐に冷えたミョウガの甘酢漬けとの相性がよかったのには満足した。

そう、無視されることを無私にリレーすればよいのである。

ま、暇、暇、暇ゆえの愚行自慢ということで・・・・・

稼ぎのない男ほど、辛いことはないと確信するこのごろだ。

 

令和二年十一月一日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

楽しみは餅だけになっちゃった。

外気は三度。かつて 「餅 一〇八 」という本の写真を担当したが、 その撮影風景を思い出しながら・・・・・

手でちぎって、ワサビ醤油で喰うのだが、茗荷の甘酢漬けもよしだ。明太子があればさらによし、か。

友人から貰った桜のチップが効いている。

そしてカスタマイズしたガスバナーで、厳かにゲソさまを炙るのでる。

いろいろな食材も炙ってみようか。「バナー道」を確立するぞっっっ。汗笑)

何事もない浅間北麓の日々が、なんとなく、ぼんやりつづいているな。

ところで、「霞」って喰えるのか。ウム、マジメに考え始めている。

 

令和二年十月二十六日

淺岡敬史

 

 

 

 

越冬

後輩 S から、お愛想付き東京自宅訪問の伺いが何度かあったが、ここ三ヵ月「諸般の事情」があり越冬が選択肢の一つなので、と断ってきた。

彼はその「諸般」が分かっていないのだから厄介だ。暖房費節約での炬燵写真を二度ほど送ってもトンチンカンなのである
他人さまの「生活の安定」の尺度を算術することは、体感なのである。
さらに知性が大前提と思うが・・・・・

 

 

 

笑い、歌い、読みつづける、躍るゲソ

食生活は、原寸大、等身大の表れだろう。

しかし、後輩某 S は、またまたトンチンカンなのである。写真技術より、表現者としての大前提を学んで欲しかったな。

 

令和二年十月十三日

 

 

 

暗い日曜日

ほぼ二十年振りに「暗い日曜日」を観た。

おそろしく古いDVDが再生できたのも嬉しかったが、主題のピアノ曲には揺さぶられたな。

場面はブタ・ペスト。なんどかこの地には行っていたが、主な場面のレストランは知らなかった。 現在でも、観光名所としても営業してるらしい。

ぶっ飛んだ映画だった。

令和二年十月十一日

 

 

淺岡敬史

 

今夏の決算

この夏、三ヵ月の決算を撮った。

うーん、他人さまが理解できる数値化するのは困難だが、七文字もあれば、オイラには説明できるワンショットだ。

令和二年九月三十日

 

 

 

おとといの、と、云うことでドングリ集めは見事挫折。
ぼんやりとイガグリ コレクションと相成ったのである。遮光器土偶の目ン玉と重なった

 

イガグリくん

格闘漫画・スポーツ漫画の原点でもある『イガグリくん』。

——— 日本では終戦後、柔剣道や時代劇を描く作品がGHQによって禁じられており、サンフランシスコ平和条約締結まではどの作家もこのジャンルの作品を執筆できなかった。『イガグリくん』はその解禁第一号と言える漫画で、この作品のヒットを皮切りとして他の漫画誌でも柔剣道や時代劇ジャンルの作品が相次いで始められた。——— (Wikipedia)

 

背比べ

かのホスト クラブ自慢のシャンパン タワーに負けてはおらん、ということで雨のドングリ タワーを撮った。
でも、それでも合点が往かない。

約十五分は苦闘したろうか。
イガイガ振りが絶妙な安定性を保ち、大いに助けてくれた。イガグリが天を仰いでいたぞ。

 

令和二年九月二十日

 

 

 

ドングリ笑う

空腹で里山、村、町に下りてくる熊んこのために、一時行政がドングリを集落から集め、山に運んでいた報道記事があったが、最近ではどうなっているのだろう。もともと熊の住むところに僕らが来たのだから、「大家さん」に義理はあるだろうな。

 

で、早朝五〇〇〇歩の道すがらドングリを集めることを「責務」としたのである。

 

友人にその旨を伝えたら、寺田虎彦のエッセイ「どんぐり」とバカ売れした絵本「木を植えた男」のことを教えてくれた。
なるほど、東西問わず、ドングリに無意識の感情に届くようなとんでもないものが宿していることが分かった。
で、ドングリに乞うのである。人生、何たるもんぞ、と。

 

で、で、この記事を書いていたら、「ドングリを収集し熊に与える行為」について」が目がとまり、ついでに目がテンになった。訴求力がある内容だけに、ありゃぁ、だな、

 

レンズ向こうで、ドングリが笑っていたようだ。

 

 

令和二年九月十七日

 

 

 

カンカン焼き

流通の発達か。二日後には近海が山奥に届く。
で、缶のままカセットコンロへ。蓋から湯気が出始めたころが喰い頃と取説に。数分後に別世界が展開したのである。

若い頃、スキー仲間とよく牡蛎を喰った。裏には、およそ2000コ以上の牡蛎の殻が埋まっているだろう。数百年後の地質学者が、此処を調査したら「浅間北麓は海だった。」と報告書を提出するかも 汗笑)

 

流通の発達が武漢疫病によって、サプライチェーンがらみで国際政治まで膨張してしまった。

地球規模で悶々とした日々は続く。

チグリス・ユーフラテス文明、いや、サハラ砂漠が緑でおおわれたいたころの地球は、

人類のカミガミは「ヤオヨロズ」だったのだ。

 

令和二年八月十二日

 

 

 

我が家を旅する

自粛、自粛、自粛と脅迫されるような日常を、ある会報誌に 「家を旅する」と題して寄稿した。

で、夏の仕事場を旅をして一ヵ月。ぼろぼろになった雑巾をしばし見つめていた。こいつらにも意地と誇りはあるのだろう、なんてちと感傷的にもなったな。針供養、茶筅供養などのセレモニーに参加したことがあるが、雑巾供養があってもいいだろう。

漂白をしっかりして純白になったところで、さて、何を拭いて棄てようかな。

 

立ち止まる旅を楽しんでいたが、駆け足の旅で大失敗。風呂場に飾ってあったビーグル犬コレクションの中で、もっとも思い出がある4体のうち、ふたつのフィギリン (ノーマン・ロックウエル) を壊してしまった。一瞬、こっちも壊れそうになったな。修復は終了したが、ノーマン・ロックウエルのことを新たに知ったり、彼の画集をボストンの本屋で眺めていた40年近く前のことを思い出したり、風呂場だけでも満足な旅が出来た。

 

キッチンではこれまた大切に使っていたピッチャーを割ったのだ。修復できるものは金継ぎで復活するが、このピッチャーだけは不可。

でも棄てられないのだ。未練たっぷりなのが厄介だな。

まるで自分を眺めているようだ。

 

 

バースデー・ビンテージ

モスクワで買った1950年作の旧東ドイツの名窯の小皿。これも割った。そもそもワン公のエサ容れにしようとした不遜な考えがよくなかったのか。破損した形をそのままに残して玄関先に飾ったら、カッコいいかもな。

 

 

令和二年八月八日

 

 令和二年一月から七月 「最近の事 」

令和元年 「最近の事 」

旧 「最近の事 」

 


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