日本列島の誇り。

30年ほど前から僕の中で静かなブームであった赤城山麓の「磨製石器」。3万5000年前に造られた人類最古の道具だ。地球上に打製石器はすでにあったが、研いで磨いた道具は日本列島だけであった。後の調査によって赤城山麓だけでなく日本中から数多くの「磨製石器」は発掘された。
たしかに日本刀も同じで殺傷能力だけではなく、そこに美と精神をも造形したのだ。
まさに用と美の極めつけだ。

 

で、知人の職人に同じ石である黒曜石で、同じような細工を頼んだら「エレェ手間だったよ。」とクレームに近い電話。御礼にペコちゃん の詰め合わせを送ったが返事はない。汗笑)
今となっては、「磨製石器」は信仰の対象なのである。

日本列島の誇りは、まだまだある。
小笠原諸島の西之島だ。年が迫ってからご披露したい。

 


 

令和五年十二月三日

淺岡敬史

 

 

包装にヤラれた

「香水は、蓋を開ける前から香っていなければならない。」
フランスの香水王、フランソワ・コティの言葉が忘れられない。香水瓶美術館を何度も訪れた。日本も包装に関しては、フランスには負けてはいない。その極めつけが風呂敷だろう。「袱紗」をはじめ正倉院の数々の宝物はその証左。
大麻飾りを包んでいた麻紙(まし)は、開ける前から不思議な振動音を発していた。
なんと麻紙は風を通すのだ。風通しがよくない浅間北麓の障子紙に最適なのであった。さっそく発注した。


 

自在に装飾

未使用のカーテンレールが生き返った。

動きがスムースなのだ。気の流れや午前、午後の太陽の動きでさらに移動。

 

 

しばられ地蔵。

近くのお寺で人気なのが「しばられ地蔵」。我が家の円空似の地蔵さんを麻の紐でしばってみた。宮崎・日向の作家「あさの和」との縁結びの思いで、ギュッと結んだ。

 

令和五年十一月十五日

淺岡敬史

 

ただ一心で絞った。

親しくしているお二人の親御さまが、相次いでお亡くなりになった。ご高齢 であったので、天寿をまっとうされたのだが、仕事のことで凹んでいたときと重なった。
そこで目にとまったのが、毎朝往くお寺の奥にある大量の実をつけた柚子の木。収穫にはまだ早かったが、50コ ほど。なにか単純作務を繰り返しかったので、搾りに搾った、搾った。

10コほど皮ごとジューサー。きれいなグリーンのムース状の山が出来、それに蜂蜜と練乳を垂らしで戴いたら奈良 の門跡からサービスされた感じの味に大化けしたな。

 

不思議だったのが種だ。納豆のように糸を引き強烈な油分。調べてみたら「ゆずの種を焼酎に漬け込むと 一週間程で、トロトロの化粧水ができます。ゆずの種を覆っているユズペクチンが天然の保湿成分の役割を、内部に含まれる不飽和脂肪酸は 細胞をふっくらさせる成分です。一度で、たっぷりつくれるので、 乾燥した肌へのボディーローションとしても人気です。夏、日焼けした肌につけると、火照りがすっとひいていく。」との商品説明だった。
なるほど。 御前様から収穫の了承を得ているので、柚子が笑っている毎朝が楽しみだ。

 

令和五年十一月五日

淺岡敬史

 

バースデービンテージ・ペーパー


オイラが生まれた1950年の2週間前、朝日新聞が金閣寺炎上を伝えていた。一面は朝鮮戦争の記事 だったが、炎上の記事は裏面に小さな扱いだ。
ま、当時は京都などの話題は暇ネタに近かったのだろう。
その70年後、まさに〈最旬〉であった金閣寺ご住職のお点前を撮った。

一面の広告欄に興味をひいた。なるほど「愛の渇き」か。

さっそくアマゾンに発注。価格1円、送料300円也。オイラの本と競い合っていたのが嬉しい。
ついでに左横の広告「つゆのあとさき」(永井荷風)の題名にひかれたので、ついでに買った。
気分として重なったな。

 

令和五年十月二十九日

淺岡敬史

 

 

 

見送り三振


吾妻線の八木原駅まで、長い長い旅だった。浅間北麓の仲間から紹介され二代目クロを引き取りに向かったが、見事な疾走。3年間面倒を見てくれた育ての親でありサーキットレーサーのS氏も驚くほどの脱兎のごとくの遁走だった。
ま、本能的直感なんだろうな。

確かに住み慣れた環境から、都会の狭い集合住宅をニャン公が映像化したのだろう。

三振は三振。
ただレンズを一瞥したワンショットとトロトロのオムレツだけが思い出になったな。
早朝に家を出たが、きっぱりと帰った。嗚呼 ————。

 

思えば高速道が完成する前は、浅間北麓までこの道の往復だったな。気になっていた雪を被ったカフェが二代目クロの実家なのであった。

 

 

令和五年十月十八日

淺岡敬史

 

 

 

 

 

災と才そして裁

2013年の福島。ほとんどの瓦礫は片付けられていたが、一軒だけが無惨な姿を曝け出していた。この地は津波の被害はなかったが、人格さえ感じさせ強烈な意志をもった廃墟だった。

東京へ向かう車窓からの眺めと廃墟が重なった。

 

写真がデジタル保存となってからは、瞬時にかなり昔と今が直結しているのである。そこで知人から興味深い本を紹介された。
『漢字の気持ち』(高橋政己著 新潮社)をパラパラめくっていると、———「災」と「才」と「裁」をつなぐもの ———のページで目がとまった。詳細は省くが、気になるつながりだったな。

 

 

「才」の本来の意味に、「持つ・たくわえる」があると初めて知った。
写真の椅子は50年近く前に購入したもので、愛着そのもの。当時流行った北欧家具メーカーだが、本体の鉄の部分はまったく問題無い。さすが頑強な名車ボルボの国ならでの面目かな。ただ全体の布部分は30年前あたりから漆黒が「災」ではないが、日に焼けて白っぽくなっていたのが気になっていた。貼り替えを業者に見積もってもらったら、大変な金額。

「ペンキ塗装かぁ」と思っていたが、あった、あった。布専用のスプレー式ペンキで、ほとんど新品同様の漆黒に近い仕上がり。

福島の復興を陰ながら応援してきたが、我が家では椅子が復権したのである。

流れに流れて「才」に「偏愛空」のルビを強引に打った。

 

 

令和五年十月五日

淺岡敬史

 

 

 

赤と黒

東京の事務所を引き払い浅間北麓に移って33年。はじめて訪れた郷土博物館で見た天明大噴火を描いた「夜分大焼之図」が強烈だった。たいへん不遜なことだが、大自然の怒りって「美」を伴っているのか、噴煙の赤と黒が肌に喰いこんできたのを思い出す。

 

学生時代にたむろしていた「ジュリアン」という喫茶店のオーナーの口癖がスタンダール「赤と黒」での主人公ジュリアンの科白「軍服の赤の時代が終わったのなら、司祭の黒で頂点に立つ。僕ならなれる!」だった。「ジュリアン」の店名の由来だ。

その「赤と黒」が、大噴火図と重なったのだ。

 

以来、勝負色は、「赤と黒」となった。

 

 

 

 

 

ベランダの食器棚、天井裏の階段、そして垂簾も「赤と黒」で勝負だ。

僕は博打はやらないが、はじめてラスベガスに行った時、付き合いでルーレットをやった。

これも「赤と黒」だった。若さの勢いだったが大負け。

不思議な配電盤を玉が転がっていたのが印象的だったな。

 

 

 

 

東京での仕事部屋も「赤と黒」。直接、陽は入らなく、行灯の明かりで妙に集中できるのだ。

タバコも「赤と黒」にしたが、販売店が少ないので挫折。

 

天明大噴火といえば、ご遺体が流れ着いたのは、東京・柴又の荒川下流。その供養塔を建立なさったのは学生時代の主任教授であった柴又帝釈天の御前様のご先祖だった。

柴又帝釈天といえば「寅さん」だが、これまた不思議な繋がりで「さくら」さんと山田監督とのご縁もいただいた。

 

「赤と黒」を一言で言えば、「一寸先は闇」。

 ただ「一寸」は、心持によっては、「三千万寸」にもなるのだ。

 

 

令和五年八月十九日

淺岡敬史

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱ戯写かぁ

性懲りもない日々だ。潔いほどの猛烈な熱射を楽しむ方法をあれやこれや、と。
ここは価値判断や心情など括弧の中に入れて、写真機を持って丹下健三に頭を下げるべくM姉御のもとに通って40日が過ぎた。高さ60メートル以上ある鐘塔の十字架と錫杖が見事な形を創っていた。

 

丹下健三といいえば、広島の慰霊碑だが、もとは丹下がイサム・ノグチに依頼したデザインだったが、「彼はアメリカ人だから」という無能な小役人の一言でドタキャン。
丹下健三の思いはいかがだったのだろうか。

 

カテドラル付属幼稚園の卒園児が制作した淡い釉薬をかけたようなモザイク画。ここでも錫杖は溶け込むのだ。そう言えば、密教の本山である高野山の奥の院に気になる石碑がある。これは景教(ネストリウス派のキリスト教)を称えた景教碑である。聞いた話だが、高野山で胸で十字を切る坊さまが今もいるらしい。空海が日本に持ち帰った錫杖や密教の他に何があったのだろうか。

 

 

令和五年七月十六日

淺岡敬史

 

 

 

 

戯画から戯写

点と線。そして面から三次元、いや四次元、いやいや多次元かも知れぬ3枚の写真に悶々。3枚がひとつになって戯写となるのである。
(『ドラえもん』の四次ポケットとは違うよ。)
先月は「パリ画壇、サガン、小豆島が、浅間北麓で見事に繋がった。」と書いたが、今回も同じだ。
強いて云えば大宗教の懐を覗いたような3枚かも・・・・・。
直感を説明できたら、作家になれるのだろうな。

 

二年前に東博で開催された鳥獣人物戯画展は、渋谷の雑踏のように混雑していたが、図版でも迫力は充分に伝わってきた。どう見ても、これは曼荼羅だろう。
ま、このページはWEB公開ではあるが、自分の雑記帳なのだ。

 

令和五年七月十六日

淺岡敬史

 

「この下に、何とかいう金持ちの小娘が住んでるよ。」とバブレ会長の高笑いが印象的だった。赤木曠児郎さんから紹介されパリ画壇の親方たちの撮影をしていた28歳。

 

その「小娘」が、なんとサガンであったのだ。今から思えば、撮りにゆくべきだったと思われるが、ま、ご縁がなかったということかな。当時は四十歳を越えていたサガンを「小娘」とは、会長さんもおかしな表現だったな。(嫉妬かな・・・・・)

しかしサガンと僕を繋げたのが南仏だった。オペラ通り脇にあったジュンク堂で「悲しみよ こんにちわ」を買いに走った。安宿でパラパラとめくったが、南仏を中心とした話だったようだ。文庫本の表紙が高校時代から大好きだったビュッフェだ。なによりも撮影目標であったシャガールが南仏にいらっしゃるのである。パリの知人にお願いしてシャガール宛の手紙を投函。
翌年、ニースにアパートを三ヵ月借りて撮影に挑んだが、シャガール夫人から丁重な断りの手紙をいただいた。
(後で知ったが、当時のシャガールは目に大きな支障がおありだった。)

 

輝く太陽と眩しい地中海が、空しく思えた三ヵ月だった ————。

 

 

 

 

 

パリ画壇、サガン、小豆島が、浅間北麓で見事に繋がった。
はてさて、その繋がりの詳細は半年後ほどに・・・・・
3D海底地図作成の電波機器は、自分の位置を元に計測する。これが対象が自分であったり、自然、趣味・道楽でも照射するには能力が必須だろう。それを僕は下等生物がもつ「触覚」といいたい。

 

「あっ、おなご先生だぁ。」物語が、はじまりそうだ。

———— こら、魑魅魍魎の癖して何を思索するか ———— 汗笑)

写真 松竹株式会社 映像商品部

令和五年六月五日

淺岡敬史

 

 

 

淺岡敬史

 

五月五日 金曜日 晴れ、午後曇り。

 

高校時代からだったか、夢によく出てきたいたのが銀色の小さな玉。それがどんどん大きくなって迫ってくるのだ。恐怖感もあったが、納得がゆく迫り方でもあったのをはっきり覚えている。
そんな夢の履歴をたどり若き日を映像化してみた。うん、既視感に満ちてるな。デジャヴュというヤツかな。
そう、800年後から飛来したきた銀色の光速で移動できる巨大な球体なのである。ま、人知を越えた「知」の集合体なのか、よからぬ力任せのミサイルなどの無力化は、一瞬だった。

 

淺岡敬史

 

魑魅魍魎のささやき。

世界的な話題となっているチャットGPT。Generative Pre-trained Transformerとは、「生成可能な事前学習済み変換器」という意味らしい。
「ホームページは膨大なゴミの山」と20年前に友人が云っていたが、ゴミの中にも図書館、博物館の比ではない貴重なデータもあるのも確かだ。チャットGPTは天文学的なデータを前提に成り立つが、自分だけのビックデータだけなら「耽溺 GPT」は幼少のころより内蔵されているな。汗笑)

 

アメリカの大学では、チャットGPTは禁止されているらしい。ほぼ完璧な論文が10分ほどでできるらしい。で、アルファベットとは違い日本では平仮名、漢字、カタカナとあるので、アルファベットとは違い、現段階では実用不可に近い。
「霞は喰えるのだろうか」と芥川龍之介と三島由起夫に聞いたら、一瞬でお二人からご回答をいただける仕組みなのである。
「さゆり姐 7割」と「聖子ちゃん3割」を合体してと希望したら、瞬時に写真として出来上がるのだろう。著作権法の組み立ても忙しくなるだろうな。

 

しかしAIとは、Artificial Intelligence(人工知能)。つまり人の手によっていかようにもなるものだろう。原子力の平和利用と等しく、人類愛、世界平和を唱えるような虚しさもあるな。

そこでお縋りしたいのが、魑魅魍魎さまなのである。

 

浅間山大噴火の爪痕ではなく呼吸跡のような造形が、我が家の裏に広がっている。まるで魑魅魍魎さまたちに護られているようだ。植物が音を聞き分けることができると、日本の学者が科学的に証明し世界でも話題になっているようだが、当然、話もするのだろう。
ささやきならよいが、「喧しい、だまれっっ。」てなことも・・・・・
なんか、最近もふくめ夢がゴタゴタしてきたな。

 

令和五年五月五日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

呑み代 タバコ銭のこと

国境の島、対馬。
750年前の外来イナゴの大群。群に群れてきたモンゴル兵数千に僅か80騎で戦い討ち死にした武将は、僕たちの誇りだ。その後の「神風」はご存じの通り。彼を称えた騎馬像を礼讃すべきポスター制作の一翼を担えたのは光栄の至り。

その三日後に、奈良講談の制作が・・・・・後援の「奈良県 橿原市 桜井市 明日香村」に押され、気合いが入った。NASA撮影の写真を中心とした耽溺すべき意匠が決まった。

 

「Oh Dragon ‼︎」
宇宙からの夜の日本列島を見て世界的に絶賛されたのだ。まさに精妙な躍動感を称えた昇り龍そのものだ。

不遜ながら、何よりもたいせつな10月までの呑み代、タバコ銭に有り難く繋がったのである。汗)

 

 

令和五年四月十六日

淺岡敬史

 

 

 

 

錫杖の造形

豪華本のような縄文土器の図録(2001年 東京都国立博物館)を眺めながら、形象学にさらに関心が高まっている昨今。収録されている器物は日常雑器というより、ほとんどがアートの世界で、冗舌に多くを語っているようだ。
文明の根拠として文字があげられるが、日本人の思想/信仰が、すでに縄文時代から体系だって「縄文精神文化」として存在したと強く思うのだ。文字を持たなかった縄文人は、単に文字を使った思想が表現されなかっただけの話。彼らは、思いや考えを文字ではなく、定住という行動や形象で語っていたのであるのだ。

文字がもたらされた六世紀以後も、和歌、俳句といった、世界最小形態で表現をしてきたが、多くは美術の形で語ってきたのだ。


20世紀最高の文化人類学者と称されるレヴィー・ストロース氏をはじめ、21世紀の世界的知性と言われ、2015年にNHKで放映された番組で「縄文文化は世界史的に見て世界的な偉業である」と称えていたジヤレッド・ダイアモンド氏

 

「1万年を超える自然との共存共生の中で、日本人の精神性は育まれた。そして 現代の日本人にも縄文の文化的遺伝子は息づいている。そして縄文文化が 日本人の未来を拓くのだ。」(国学院大学名誉教授 小林達雄氏)

早朝のたいせつなアイテム錫杖にも、多くを語っていただいているような気がするが・・・・・どうだろうか。錫杖は音を観て、形に訊くのである。
 
「形」を「見る」という基本は、思想史上でも核をなす概念である。/ 野家啓一


令和五年四月一日

淺岡敬史

 

 

寸止め四段活用

某PR誌にトルコのタイルに関して原稿を書いていたら、大地震のニュース映像が流れた。
トプカプ宮殿のハレムを装飾していたタイル画の復刻版を35年前に購入し、夏の仕事場に飾っているが、30センチ四方のタイル画を嵌め込むと一畳以上あり、額装した「大作」をよからぬ妄想で買った手前、さすがに心穏やかでは無い。

 

地球規模から考えると地震の原因であるプレートなるものは、薄皮のようなものだろう。
思えば、我々は危なっかしい薄皮の上に住んでいるのだ。
薄氷を歩く思いで綱渡り人生を自認して久しいが、天災を避けられないのは我々の宿命でもあろう。

 

「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で・・・・・」
と「高野聖」の坊さまが絶叫するまでもなく、「一寸先は闇」は若いころから僕の信条のようなものだ。
何、「闇」の前に「一寸」もあるではないか。「寸止め」はけっこう得意だな。
道端のモロモロにレンズを向けると、ある種の辛さもともなうが光が射してくるように思えるようになって50年は過ぎたなぁ。

 

そこで「寸止め四段活用」だ。 歩く、見る、 撮る、 調べるのだ。
居心地の得もいわれなさ感が、つづくのであるのだよ。汗笑) 

 

令和五年三月四日

淺岡敬史

 

 

 

 

 

木洩れ日

「旨味」は翻訳するよりあちらの調理場では「ウマーミ」で通じる。
「カラオーケ」も今では世界語になっちゃった。
直感的な「音」を優先したのだろうな。

 

で、木洩れ日はどうだろうか。
グーグルの翻訳では「sunlight filtering through trees」となったが、心象までとはいかないだろう。

写真を撮るときに、影はつねに意識している。うまく撮れたときは影がビミョウに動いて見えるから不思議だ。かなり大袈裟だが、影に訊き、揺れる葉音を観るよう心がけてはいるが・・・・・

 

ある日本の文芸家が、アメリカの教壇に立っていた時に困ったのが、「虫の音を愛でる」の英訳。まったく通じなかったらしい。そもそも虫とは彼らにとって害虫の認識しかなかったのだった。

 

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解体

重さ15キロ以上はある鏡餅の上段をいただいた。餅を切るというより2時間近くの格闘だった。
出刃包でも刃がたたず、熱湯を何度か浴びせ続けてダイビング用のナイフで小分けできた。黄身を落としたカレーが美味かった。

 

市販の切り餅とは違い、歯応えが力強いのである。有り難さを噛みしめる心境だったが、一ヶ月も待たずに、餅は胃袋の奥底へ消えていったな。

 

今年は、豆ではなく、紀伊国屋文左衛門に習って餅を撒いた。

 

令和五年二月五日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

朝陽でうがい

「ランナーズハイ」は若い頃に経験し、独特の高揚感を抱いた記憶がある。
“脳内モルヒネ” エンドルフィンという神経伝達物質が正体らしいが、朝陽にはセロトニンという“良物質”を分泌させる効果があるらしい。
「幸せホルモン」って呼ぶ人もいるが、ま、気分の部分がほとんどだろうが・・・・・鰯だけでなくワン公、ニャン公の頭だって信じることが出来るので、信仰とまではいかないが朝陽はさらに信じているな。


そう、早朝ビールを美味くする効果だけは、間違いないようだ。

地下鉄の中吊りで見つけた「清廉な冬、温もりしんしん。」 うん、いいコピーだな。

 

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

仲良しアイテム

枕元の誘眠グッズのiPadでは、「名探偵ポワロ」が最適だ。
登場人物が多すぎるのが睡魔にとって好都合なのであるが、ポワロのステッキには惹かれるな。
いろいろな仕掛けがあり、望遠鏡付というのがヒントになって、錫杖頭をカメラの一脚に取り付けてみた。ついでに、ミニ三脚も装備。一脚を短くするとバックに収まるので嬉しい限りだ。

錫杖は法具だが、もともとは熊除けのための鈴代わりから愛用するようになった。

 

夏の仕事場では早朝に足湯往復が日課となってるが、「熊がでたァ」の噂もある。
木洩れ日のなか南部鉄のシャンシャンシャンとガムランの共鳴と錫杖の造形は、妄想の見える化でもあり、まことに心地よい。
ただタブロイド紙好みの変わったクマ公が、そのハーモニーを気に入って好意的に寄ってくることがあるかも・・・・・

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

小学三年生のポッケ

鉛筆削りとして親戚のおじちゃんから戴いた万能ナイフは、今も机脇にある。もう60年以上は付き合っているだろう。
筆入れではなく、いつもポケットに入れてたな。
自慢気に、これで仲間の鉛筆も削っていたのだろう。ある女子がは毛玉を鋏で夢中で取っていたな。
小学校のころが詰まったたいせつなアイテムである。時々磨くが、心穏やかになるから不思議だ。純銀貼の繊細なレリーフは、今見ても素晴らしい細工である。

 

ネットで調べた。
東京・文京・小石川生まれの藤本保廣という伝説的なナイフ職人が1940年代に制作したようだ。

スイスのアーミーナイフの大工場に行ったことがあったが、藤本保廣の世界とはおよそ別ものだった。

 

令和五年一月十三日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

大作家のイジメ

今年も明けてしまったな。
年賀状の素材選びで困っていたら、あった。あったよ。

「みんなは可愛がられて、みな絵本になったけど、ウチだけは屋根すらも描かれなかった。ワタシは皆と違って彼女にはどうしても懐けなかった。」

もう40年前近くのお話だった。

彼女の民宿の裏庭に洗濯ものがたくさん干してあり、夕陽を浴びて輝いていたのを思い出した

 

 

カリカリ ガリガリッ

 

小学生のころかな、手動の鉛筆削りで削る音が好きだったのを思いだし、骨董屋で見つけたキャビネ判写真機の削り機を買った。
今でも筆記具は鉛筆が多いので、デスクの脇にあるとご機嫌になるのだ。
でも、ナイフでじっくり削る方が独特の充実感があり、これはお飾りだけとなりそうだが・・・・・
そういえば、お飾りにはならないが、名人が作った鰹節削り器は、どこにいったのだろう。

 

 

 

 

猫の細道

どうしても美術館に入りたい黒猫とそれを阻止する警備員さんの攻防が繰り広げられている尾道市立美術館。2017年から続くこの攻防を猫と警備員さんそれぞれの柔らかい視点が本になっていた。
「警備員さんと猫 尾道市立美術館の猫」 著者 にごたろ KADOKAWA

 

尾道といえば「時をかける少女」なのである。
映画でも網の目のように走しる「猫の細道」が印象的だったが、尾道にはまだ行ったことがない。

——— 時をかける少女 空は宇宙の海よ 褪せた写真のあなたのかたわらに飛んで行く ———

そうか、ユーミンの作詞作曲だったのか。
そうそう、僕には褪せた写真は一枚もないな。

 

令和五年正月元旦

淺岡敬史

  令和四年 「最近の事 」

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