「霞」の出し入れ 20年ほど前あたりからだろか、年収が激減しマジメに「霞は喰えるのか」と 考えた。顧見ると、我ながらステージが高い形而上学の自問だったな。汗笑)
今でもかなり動揺するのが「霞」と対極にある「かつ丼」だ。ただ難を逃れることができるのは、みな病棟色の蛍光灯を浴びているようなの食品サンプルが店頭にあるからだな。 で、「霞は喰えるのか」なのである。 昔、むかし。或る栄養学の大家が、修行中の雲水二十人の摂取カロリーを調べた。700カロリー @ 日だった。この数値は成人男性の三分の一の「栄養」だ。 作務も厳しい修行だが、でも誰もが頑健な肉体を維持しているとの結果だった。 その証しがある坊さまの著書 ———「歩行禅のすすめ」(塩沼亮潤 KADOKAWA) ———に載っていた。その本は、「ひもじさ」を感じる時間をつくれ、と高らかに訴えている。 ある修行でなんと100日もの間、塩と五穀を絶ったという。 塩の摂取がなければ非常に危険だが、ほうれん草などの野菜には、微量のナトリウムは含まれており、それを身体が徹底吸収するとの結論だ。雲水の700カロリーも合点が往くところだ。 かつ丼、特に特上かつ丼に勝てる奥義、秘技は、自前の「ひもじさ」の自覚なのであった。
「霞」的であることの本質と「不浄の浄」を極めつつあった浅間北麓の日々をたいせつにしたいな。 来夏を待とう。 |
京都の方から配給されたミョウガは甘酸っぱくも痛切な感傷を伴い、カリンは渋みを教えてくれた。また干し柿は、深みとは、思いとは何かを伝えてくれたようだったな。 かつ丼の無遠慮なパワーには足もとには及ばないが、ミョウガ、カリン、干し柿の慰問物資は、心で喰う姿勢が大前提であることを教わった令和弐年だった。 |
世界の五大文明 中学の教科書で教わった「四大文明」は、世界の常識なのだが・・・・・
———— 納豆売りの行商で生計を立てながら独学で古代に挑んでいた二三歳の青年、相沢忠洋は戦後も間もない昭和二四年の夏に 群馬県岩宿の関東ローム層 から旧石器を発見した時の感動をこう述べている。 それを目の前に見た時、私は危うく声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。(相沢忠洋『「岩宿」の発見』講談社文庫)————
石器発掘の有無は 文明成立の条件 のひとつだか、世界最古の石器は日本列島で発見されたのだ。(1万箇所以上も) しかも単なる生活道具ではなく、そこにうつしく装飾も施された磨製石器なのであった。
ギルガメッシュ石彫の復刻版も欲しいが、それを圧倒して凌駕しているのだ。ブルガリ、カルチエも驚く磨製石器の造形だろうよ。(この磨製石器画像、確信的無断借用)
令和二年十二月三十一日 |
水も人の思いも「汲むもの」と云うが・・・・・
「あっ、このカブトムシはアタイだよ。」 ほぼ五ヵ月振りにお会いした寺友の婆さまに、夏に撮った写真を六切でプリントしてお渡ししたらウルウルされた。 久しぶりの婆は足がかなり弱ったようで、おケイちゃん に会うのが毎朝だったのが週一回だけタクシーでお寺に。
冬の朝5時ころは、真っ暗だ。補助籠車の老婆一人がタクシーを止めるのも大変らしい。 運良くタクシーに乗る。 「どちらまで」 「護国寺っていうお寺、知ってますか。ムスコに会いにきてただけ。アタイ、これからお墓に戻るのヨ」 「ギョッ」 てな顛末らしい。
彼女から預かっている雑木に鎮座する釈迦像とカブトムシとのハーモニー、協奏がツボに入ったようだった。思えば、毎夏、逝くためにだけ我が家を訪れる虫ケラから、「自然説法」を有り難く戴いていたな。 なるほど、虫ケラにも偉大な一分の智があったのだ。 よし、これからもカブトムシ、虫ケラの思いを汲むことにしよう。 そう、「死を生きる」なのである。 |
麝香
昨日はただ、一心に歩いた。
観音は「音を観る」とのことらしい。香道の世界では香りを嗅ぐではなく「聴く」という。じゃ、香りを眼で、ファインダーで聴くことも有りか。 朝陽を受けた麝香の動きは、光の魔術かじつに優美で精妙な曲線を描く。が、何も聴こえない。 ただ写真をプリントアウトすると、そこに美の専制者たる何者かの囁きが聞こえそうなこともあるのも事実だ。味気ない事務機でもあるインクジェットプリンターではなく、銀塩写真時代の暗室作業だったら、「眼で聴く」こともあり得るだろうな、と思った。 50年ほど前、麹町に中村現像所という土門拳指定の木造平屋の現像所があった。主である大正生まれの中村春雄さんは、当時は「焼き付けの達人」と呼ばれていたが、彼は暗室で印画紙にいつも「訊く」のだとある方から聞いた記憶がある。つまり、「焼き付け」「暗室」は気持ち、気分の置き場所ってことかな。 お会いしたことはないが、面魂は想像できるな。 それにしても、麝香の「麝」。「鹿」を「射る」のだ。つまり牝鹿を射る香りなのだ。英語ではムスクとなるが、梵語の睾丸を意味する語に由来するとされる ———— とWikipediaのご説明だった。 で、ある方から麝の塗香をいただいた。はてさて・・・・・
令和二年十二月二十七日
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仮の世界
ハプスブルク家御用達なのね。 年の瀬に、てな書き出しでの原稿は瞬時に却下された。 「オレは、オレだよ。」って、いつ主張できるのだろうか。
タイピングのムッシューだったら強引に書きそうだけど、どう物語を始めようか。 (WEB掲載許諾をパリの彼にメールしてるけど、返信なし。ここは見切り発車だ。)
レンズ向こうの「バレリーナ」嬢が、眼のすみで見つめているようだ。 ま、お互い、仮の世界どうしだし、ね。 |
令和二年十二月二十五日
自然説法とジャン ピエール アロー 気温零度の朝7時。 英霊の将兵のみなさんに熱燗で献杯。湯気すらも氷りそうな冷気があたりを圧しているようだ。指先もちぎれそうな寒さだが、そこに達成感を覚えるのが不思議だった。 自分にしか通用しないであろう心理療法なのかもしれないな。
療法といえば西洋医学っぽいが、唐招提寺の故・森本長老から「自然説法」を教えていただいた。 モナリザ来日の返礼として、1977年(昭和52年)に鑑眞和上がパリに。鑑眞和上乾漆像の搬出から展示会場であるパリのプチパレでのオープンまでの記録写真を担当したが、その最中に 「自然説法」 を教わった心覚えは、英霊の前で寒さとともに実感として食い込んできた。 今思えば仏教、神道ではなく「日本神仏道」そのものの教えのようだった。 簡単に云えば自然信仰なのだろうか。
以前紹介したパリのジャン ピエール氏 は、日本通でもあるが「自然説法」っぽいことを盛んに語っていたのを思い出した。 「ZEN」は今や世界語だが、「療法」とは違うニュアンスで気持ちの持ちようを熱弁していた。彼のアトリエで撮った藤細工の椅子の縁取りも、なんとなくニッポンなのであった。
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東山魁夷さん 鑑眞和上とともに、プチパレに唐招提寺御影堂が再現された。圧巻の東山魁夷の大障壁画28面だ。 パリ在住の梅原龍三郎氏が来館し、「これは写真か。」とだけ云って足早にお帰りに。 パリっ子を魅了し、マスコミを賑わせた「Toshodaiji. Trésors d' un Temple Japonais」。 大御所も嫉妬に狂ったか。 別の日本人画家は、「坊さんかと思った。」と作品のことには触れず、東山さんの風貌だけをボソッと・・・・・
帰国後、東山さんのご自宅に伺ったおり、署名入りの立派な画集を戴いた。 が、3年後、諸般の事情で売っちゃったのだ。その無念は、今も重く引きずっている。 「泣くがいやさに笑い候」とある人が、書いていたな。 |
令和二年十二月二十二日
ジャンニ・ヴェルサーチ そして KENZO 「あっ、ケンゾウだぁ」 編集者が、けっこうデカい声で叫んだ。 ヴェネチアはチプリアーニのバー で一人で難しそうな顔をしていた。 さすがに声は掛けられなかったが、「ニッポンの方ですか。いっしょに如何ですか。」と、あちらから。 「某婦人誌の撮影で・・・・・」 勢いをつけるためブラディメリーのウオッカをダブルでいった。 「あのぅ、お写真よろしいでしょうか。け、掲載も希望しますが・・・・・」 恐る恐る聞いたら一発快諾。 「カクテル ベリーニと牛肉のカルパッチョの発祥だけあって世界一。ハリーズ バーには是非。」 などなど、いつ、どこで、誰と呑るかの会話を二時間ほど。ヘミングウェイが足しげく通ったバーであることや映画”旅情”に出てきたバー程度のことしか知らなかったが、オフクロは主題歌であった ”ヴェニスの夏”をよく知ってい。でもケンゾウをまったく知らなかったのには笑っちゃったな。
ケンゾウが武漢疫病で10月4日に亡くなった。享年八十一。 写真の彼は若かった。そして僕も若かった。汗笑) 「フェンシングの論理ではなく、日本刀の情念で勝負してます。」 パリでの意気込みを話していた姿が忘れられない。 フランス大統領官邸は 追悼の声明 を発表した。
伊達騒動も今となっては娯楽で扱われるが、殺人までいたったグッチ家騒動もハリウッドでエンターテインメントになったのを先に書いた。47歳の誕生日をピーターラビットの故郷で迎えていたが、その日にジャンニ・ヴェルサーチが別荘の玄関前で暴漢に撃たれて亡くなった。 享年五十。
こちらも追悼だ。著名なフィレンツェの聖堂でヴェルサーチの作品を20年ほど前に撮った。彼のアシスタントから戴いた黒いジーンズは ”接ぎ、接ぎ、接ぎ”の連続で今も現役であるが、これもりっぱな供養であろう。 |
令和二年十二月十日
呼び継ぎ(よびつぎ)の文化 「継いであるためにいっそう美しくなった場合もある」と白州正子さんは『風姿抄』で語っていたが、我が家でも愛着のある器はすべて修復して使っているのが自慢でもある。 写真左 / グスタフベルグ窯のスヴェンさんの一輪挿しが凍結によって割れた。 写真右/ 英国アン王女の結婚記念に焼成されたティーポット。世界を騒がしたアン王女が離婚したあたりに割れたのだ。王女はすぐ再婚、当然、こちらも速攻で再創造と相成った。 で、で、で、知人の絵付け師に金継ぎをお願いした次第。
もう30年ほど前だろうか。フィレンツェのグッチ家に招かれたことがあったが、ズシリと重い印象に残ったのが金継ぎされたジノリのカプチーノカップ。当時はグッチ家のお家騒動で世界のマスコミが騒がしかっただけに、その金継ぎが「接ぎ当て」に映ったのだった。 それらの写真が見つからないのが悔しい。
そうそう、グッチ創業者の孫殺害事件をテーマにした映画『グッチ』が公開される。グッチにはデ・ニーロ、殺人がらみの犯人としてレディー・ガガ、ほかにもアルパチーノなどなどの面魂に武漢疫病もふっ飛びそうだ。 |
令和二年十二月六日
凛乎として50年が経った 乃木神社神職の笙、笛の清澄な音色がうつくしい50年祭、鎮魂式だった。 「道義的革命」なのである。 「あと三十分、最後の三十分待とう。」とさけび終え、東部方面総監室に消えた・・・・・ 確かに血の結末だったが、しかし、彼は血をもって終わるのではなく歌をもって終わる国であることも教えてくれた。
HNKの特番「三島由紀夫 50年目の ”青年論 ”」では、『命売ります』が30万部売れ、若いアーティストたちにとって今もその影響力が衰えることはない、と伝えていた。そう、あの東大全共闘の元「闘士」さえもベタ褒めの放映だった。
で、 『三島由紀夫の世界—戀と死—附病跡学的考察』 なのである。 松本市の歴史ある病院の 理事長(学生時代の仲間)が、900ページに及ばんとする大作を出版した。50年かけての構想は、一級品の第一次資料でもあり「三島学」なのである。 氏の「病跡学は全人間誌」との本書を貫く基本姿勢は、独特の訴求力があり深い感銘を戴いた。 それにしても、この重量感。 我が家では、あたりを圧するほどのズシリとした調度品でもあるのだ。
今日は「待つ」ということを、マジメに考えた日だった。 |
50年間で、お亡くなりになった方々 僕たちが主催している追悼会を支えて戴いたみなさま。 上記、関 健氏や諸先輩をはじめ、学生時代に一人ひとりにご挨拶に伺いました。中川与一さん、越路吹雪さんにお会いしたかったな。 |
令和二年十一月二十五日
ちゃっかり坊さま 幼少のころからの友人に坊さまがいる。 彼の影響で仏教学部に籍を置いていたことがあったが、坊さまの世界に飽きたので今の職業を選んだ。神社仏閣の経営難のことは広く知られているが、それを克服する智慧もさまざまだろう。
で、でなのである。その知人の寺の立地がリッチになのである。函館は五稜郭。その五稜郭の真ん前にドンとあるのが彼の寺で、土方歳三信者的歴女が群れをなして訪れるのだ。お土産、記念品を競い合うように買い求めるのが観光客の常なので、彼の寺の「御朱印」も・・・・・となるわけだ。
新発見された土方歳三の借用書写しと「御朱印」なるものが送られてきたが、 ちゃっかり土方歳三と新撰組の旗も・・・・ お布施は、したくないな。汗笑) |
令和二年十一月十五日
午前八時と午後四時 朝夕を計算して窓の位置を決めたのだが、ここ10年写真のように観音さまには陽が射ささなかった。 そっか、この光は11月から3月あたりだけなのであった。 特に熱心な仏教徒ではないが、仏像や梵字の造形には名状しがたい憧がれが満ちているのである。若い頃、中国奥地を旅したが、振り返る過去がたくさんあるのは、嬉しいことだ。 シャッターが僕の指先に広がった。 |
令和二年十一月十一日
早朝からカラヤン、ショルティ、小澤征爾。「運命」をガンガン 。 なんとなく悶々、なんとなく淋しく、なんとなく哀れな早朝だった。 で、朝六時。 炬燵でコーヒーを飲みながら、第五番「運命」を目いっぱいボリュームを上げ、なんとなく盛り上げようと極めつけの打線を組んだ。 二番はトイレ、三番は洗顔、四番は5000歩、五番はモミジ撮り・・・・・九番はビールと相成った。 (控えの補欠は、モヤシたっぷり塩ラーメンかな。) どうだろうか。 またまた、なんとなく「ジャジャジャ ジャーン」が年内までつづきそうである。 |
令和二年十一月六日
山奥の「軍艦島」 吾妻鉱山の発見は、明治41年の晩秋にまで逆上るが、昭和35年の山元の世帯数は292戸、人口は1318名を数えるなど空前絶後の有様であった。— 中略— しかし、昭和38年以降は、不況による価格の低迷、加えて石油精製の際に排出される“回収硫黄 ”のため、硫黄の採掘は衰退の一途を辿り、遂に本鉱山も昭和46年閉山となった。(松島榮治シリーズ(百二)) |
「朗読」ではなく「読みきかせ」なのかぁ
絵日記の動画を創りながら、幼稚園の先生 の「読みきかせ」 を思い出した。 うーん、「痴人の愛」「春琴抄」「仮面の告白」でもなかったことは確かだが 汗笑)、覚えている筈はないな。 「なんとなく淋しそうだね。」とボクに向かって云ったのは、昨日のごとくだ。 万華鏡か極彩色の絵屏風を思い浮かべていた記憶がぼんやりあるけど・・・・・ 年老いて、無意識を観るってことなのかな。 |
令和二年十一月五日
N谷園への営業企画に飛び込みで・・・・・。 どうよ、湯豆腐に囲まれた鉄瓶には熱燗をジッとこらえて「御社の吸い物」よ、と訴えた。 「お客様 お問い合わせ」からの早朝闖入なのである。 若い頃は、いわゆる「売り込み」はしたことがあるけど、「飛び込み」は始めてだ。 当然、無視はされるだろうけど、その無視加減に興味があるところだ。 四代目ポチに見せびらかしたが、彼もまたそのうつろな目線をよく見れば、かなり無視っぽいな。 それにしても、熱々の豆腐に冷えたミョウガの甘酢漬けとの相性がよかったのには満足した。 そう、無視されることを無私にリレーすればよいのである。 ま、暇、暇、暇ゆえの愚行自慢ということで・・・・・ 稼ぎのない男ほど、辛いことはないと確信するこのごろだ。 |
令和二年十一月一日
楽しみは餅だけになっちゃった。 外気は三度。かつて 「餅 一〇八 」という本の写真を担当したが、 その撮影風景を思い出しながら・・・・・ 手でちぎって、ワサビ醤油で喰うのだが、茗荷の甘酢漬けもよしだ。明太子があればさらによし、か。 友人から貰った桜のチップが効いている。 そしてカスタマイズしたガスバナーで、厳かにゲソさまを炙るのでる。 いろいろな食材も炙ってみようか。「バナー道」を確立するぞっっっ。汗笑) 何事もない浅間北麓の日々が、なんとなく、ぼんやりつづいているな。 ところで、「霞」って喰えるのか。ウム、マジメに考え始めている。 |
令和二年十月二十六日
越冬 後輩 S から、お愛想付き東京自宅訪問の伺いが何度かあったが、ここ三ヵ月「諸般の事情」があり越冬が選択肢の一つなので、と断ってきた。 彼はその「諸般」が分かっていないのだから厄介だ。暖房費節約での炬燵写真を二度ほど送ってもトンチンカンなのである |
笑い、歌い、読みつづける、躍るゲソ 食生活は、原寸大、等身大の表れだろう。 しかし、後輩某 S は、またまたトンチンカンなのである。写真技術より、表現者としての大前提を学んで欲しかったな。 |
令和二年十月十三日
暗い日曜日 ほぼ二十年振りに「暗い日曜日」を観た。 おそろしく古いDVDが再生できたのも嬉しかったが、主題のピアノ曲には揺さぶられたな。 場面はブタ・ペスト。なんどかこの地には行っていたが、主な場面のレストランは知らなかった。 現在でも、観光名所としても営業してるらしい。 ぶっ飛んだ映画だった。 |
令和二年十月十一日
今夏の決算 この夏、三ヵ月の決算を撮った。 うーん、他人さまが理解できる数値化するのは困難だが、七文字もあれば、オイラには説明できるワンショットだ。 |
令和二年九月三十日
おとといの、と、云うことでドングリ集めは見事挫折。
イガグリくん 格闘漫画・スポーツ漫画の原点でもある『イガグリくん』。 ——— 日本では終戦後、柔剣道や時代劇を描く作品がGHQによって禁じられており、サンフランシスコ平和条約締結まではどの作家もこのジャンルの作品を執筆できなかった。『イガグリくん』はその解禁第一号と言える漫画で、この作品のヒットを皮切りとして他の漫画誌でも柔剣道や時代劇ジャンルの作品が相次いで始められた。——— (Wikipedia) |
背比べ かのホスト クラブ自慢のシャンパン タワーに負けてはおらん、ということで雨のドングリ タワーを撮った。 約十五分は苦闘したろうか。 |
令和二年九月二十日
ドングリ笑う 空腹で里山、村、町に下りてくる熊んこのために、一時行政がドングリを集落から集め、山に運んでいた報道記事があったが、最近ではどうなっているのだろう。もともと熊の住むところに僕らが来たのだから、「大家さん」に義理はあるだろうな。
で、早朝五〇〇〇歩の道すがらドングリを集めることを「責務」としたのである。
友人にその旨を伝えたら、寺田虎彦のエッセイ「どんぐり」とバカ売れした絵本「木を植えた男」のことを教えてくれた。
で、で、この記事を書いていたら、「ドングリを収集し熊に与える行為」について」が目がとまり、ついでに目がテンになった。訴求力がある内容だけに、ありゃぁ、だな、
レンズ向こうで、ドングリが笑っていたようだ。 |
令和二年九月十七日
カンカン焼き 流通の発達か。二日後には近海が山奥に届く。 若い頃、スキー仲間とよく牡蛎を喰った。裏には、およそ2000コ以上の牡蛎の殻が埋まっているだろう。数百年後の地質学者が、此処を調査したら「浅間北麓は海だった。」と報告書を提出するかも 汗笑)
流通の発達が武漢疫病によって、サプライチェーンがらみで国際政治まで膨張してしまった。 地球規模で悶々とした日々は続く。
チグリス・ユーフラテス文明、いや、サハラ砂漠が緑でおおわれたいたころの地球は、 人類のカミガミは「ヤオヨロズ」だったのだ。 |
令和二年八月十二日
我が家を旅する 自粛、自粛、自粛と脅迫されるような日常を、ある会報誌に 「家を旅する」と題して寄稿した。 で、夏の仕事場を旅をして一ヵ月。ぼろぼろになった雑巾をしばし見つめていた。こいつらにも意地と誇りはあるのだろう、なんてちと感傷的にもなったな。針供養、茶筅供養などのセレモニーに参加したことがあるが、雑巾供養があってもいいだろう。 漂白をしっかりして純白になったところで、さて、何を拭いて棄てようかな。 |
立ち止まる旅を楽しんでいたが、駆け足の旅で大失敗。風呂場に飾ってあったビーグル犬コレクションの中で、もっとも思い出がある4体のうち、ふたつのフィギリン (ノーマン・ロックウエル) を壊してしまった。一瞬、こっちも壊れそうになったな。修復は終了したが、ノーマン・ロックウエルのことを新たに知ったり、彼の画集をボストンの本屋で眺めていた40年近く前のことを思い出したり、風呂場だけでも満足な旅が出来た。
キッチンではこれまた大切に使っていたピッチャーを割ったのだ。修復できるものは金継ぎで復活するが、このピッチャーだけは不可。 でも棄てられないのだ。未練たっぷりなのが厄介だな。 まるで自分を眺めているようだ。
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バースデー・ビンテージ モスクワで買った1950年作の旧東ドイツの名窯の小皿。これも割った。そもそもワン公のエサ容れにしようとした不遜な考えがよくなかったのか。破損した形をそのままに残して玄関先に飾ったら、カッコいいかもな。 |
令和二年八月八日