「情緒」を、ちと考えた。

「キミ、このテレビ、どうすれば見られるのかな。」

謎は、九段の某ホテルの狭いシングルルームから深まった。
昭和47年、新幹線の東京駅に文化勲章受章者の岡潔さんをお迎えに行った。
到着時刻はとうに過ぎホームはガランとしていたが、一人、柱の脇でしゃがんでいるご老人が岡潔さんだった。

「多変数函数論」を先輩たちも誰も概要すら説明できない ————「世界的数学者」「湯川秀樹、朝永振一郎の恩師」の繰り返しだった。

こんな方が、「キミ、このテレビ、どうすれば見られるのかな。」なのである。
有線式だったリモコンスイッチを入れると、長嶋選手の特番だった。
なるほど・・・・・岡潔と長嶋茂雄かと合点が往ったのを思い出した。

この「合点」が岡潔が繰り返し綴っていた「情緒」と結びついた。(かなり無理りますね・・・・・)
講演では、一見、無味乾燥に見える数字にも「情緒」が宿るんだと力説していた。

 

毎朝の5時に空を見上げるのが日課だが、WEBは瞬時にしてリアルタイムの星空を図解で説明してくれる。
ぼんやり眺めているとき、何故か「充実感」とともに「喪失感」に襲われることがあるから不思議だ。
躁鬱の前兆なのかな・・・・・

 

 

魔法の森。

初版明治41年 原題「お伽花籠」(原作 ハッヒ・クリーベル) 博文館刊行。
国会図書館デジタルデータにこの物語が公開されているのみだが、鎌倉に初版本を持っているS氏を訪ねた。

S氏は焚書研究家でおられるが、「情緒をはぐくみ理解する最適の物語であると絶賛したのが、岡潔先生だった。」と熱く語った。
 

4年ほど前、岡潔の生涯がテレビドラマとなった。
オクサン役の天海祐希がきれいだったな。

 

 

悶々の年末

「充実感」と「喪失感」の同居は、今月二十日からとくに顕著だが、悶々はまだまだ、まだまだあり、生涯は解決はしないのだろうな。
学生時代の友人からのメールに、ある方の質問に対する石川達三からのハガキのコピーが添付されていた。

石川達三といえば悶々の極めつけ「七人の敵が居た」(新潮文庫 )だろうよ。
怪しい人物が蠢き筋ありきの国際政治、そう、「七人の敵が居た」は、どす黒いスパイラルとまったく同じだ。
人間の業は、今も昔もどこにでも転がっているのだろう。

年末も、ま、泥のように酔うしかないかな。汗笑)

 

令和四年十二月二十七日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

企業戦略

「日本人が抱くサンタクロースは、アメリカ人がつくったイメージです。あのサンタは1930年、アメリカのコカコーラ社がスウェーデン人のハドン・ズントゥ・プロームに依頼して描かせたものです。」
古い原稿を整理していたら、ドイツはローテンブルグのクリスマス博物館の館長さんの言葉を見つけた。
「サンタはコカコーラが、自社の広告にサンタを起用し、コーポレートカラーの赤と白を着せたことから、アメリカで定着し日本が真似たのでしょう。」と半ば小馬鹿にしたように付け加えた。

ま、こちらは懐が深い「八百万の神」なのである。耶蘇さまも尊んでいる。

クリスマス ——— ヨーロッパの街はしん、としている。レストランや他のお店もほとんど閉じている。 騒いでいるのは、アメリカと日本かぁ。

クリスマス博物館では、赤いマントのサンタさんはいなかった。

 

 

淺岡敬史

 

サンタになった縄文土偶

 

夏の仕事場の雑木たちのド真ん中に巨大な岩があり、空洞になったその複雑さに惹かれ南部鉄の縄文土偶を祀った。遮光土偶、合掌土偶、みみずく土偶、ハート型土偶が、じつに小気味よいではないか。雑味を排した純粋な音楽に出会ったような驚きもあった。

 

「鉄分をきちんと摂ることは髪へのダメージを回復することにも繋がります。 髪の毛根にある毛乳頭を正常に保つことがダメージを防ぐことに役立ちますよ。」と馴染みの薬剤師さんだったが、ここで蠢く魑魅魍魎も鉄分たっぷりとなることだろう。


我が日常的なサンタさんは、南部鉄の縄文土偶なのである。プレゼントは豊富な鉄分なのだ。あと10年、我が髪がフサフサであることを願うばかりだ。勢い余って湯豆腐に勢揃いとなったが、やり過ぎかな。汗笑)

 

今日は12月8日。ウサギに向かって「トラ トラ トラ」だな。


令和四年十二月八日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

煙翁

平成18年の夏。煙りがのぼっていた家に興味があり、突然訪ねたのを思い出した。不思議そうに僕の顔を見ていたが、怪訝な表情は一切ない。

「外の薪の積み方がきれいですね。」と話しかけても反応なし。ただただ僕の顔を見つめるだけだった。ワンルームらしい机の上にハードカバーの本と文庫本が数冊。どんな本なのか知りたかったが、そこは遠慮した。

翌年の夏、写真をプリントしてお持ちした。同じく煙突から煙りが出ており、薪も整然と積み上げられていた。
一瞬、レンズに向かっての照れ笑いをいただいた。
ひたむきに正直に働いておられたお人だったなぁと思いつつ、失礼した。

そしてその翌年には、家そのものがなかった。

 

淺岡敬史

加藤隼戦闘隊

人生の処方箋を示唆したようだった翁の視線は、上皇后美智子さまが毎年夏に軽井沢から草津までお通りになっていた道路沿いに住んでいた。雨の日でも外で炊事をするという話を聞き、ある種の怖ろしさに分け入る決意で訪ねた。錆びの上にさらに錆びついたストーブが2コ。かろうじて水が漏れないヤカンなどなどが、雑然と外に置かれていたが、何かストンと腑に落ちた気落ちになったのが不思議だった。

 

「若いころは中島で働いていた。」(旧 中島飛行機製作所)

なんと、あの名機「隼」の油圧関連のご担当だったのだ。 一緒に暮らそうと東京の三人の子供さんから誘いがあるようだが、ガンとして断っているようだ。「隼」で亡くなった戦闘員のことを何度となく語っておられたが、その時代で時間が止まっているようでもあった。身が縮まる思いだった。

 

帰りの車中で学生時代よく歌った『加藤隼戦闘隊』 を大声で繰り返し歌った。
「隼」翁の家も、今はもうない。

 

令和四年十一月二十六日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

某寺資料室のお宝

東京で名刹ともいわれる某寺資料室から仏教資料より意味深い雑誌が・・・・・。

湿気くさい様々な文献脇(かなり貴重な歴史でもあるが)に、さらに大切そうに茶封筒に収まっていたのが「平凡」だった。 裏表紙が「桂木洋子」だ。

えっ、もしかしてとページをめくったら、な、なんと黛敏郎先生の結婚を祝うグラビアだった。モノクローム写真であったが、色彩が見え、行進曲まで聞こえた感動。その場で坊さまに所望したら、「どうぞ、どうぞ」とまるで無関心だったのが逆お布施となった次第。

 

 

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

 

思えば、どうして「聖」なる資料室に「俗」の象徴でもある「平凡」があったのかが不思議だった。
70年前のある坊さまにとって、この8月号がお釈迦さまの教えと同等だったのだろうか。黛敏郎先生には学生時代からお世話になっていたが、 強烈な思い出は、46年前のベルリンだ。

今は亡き後輩のドイツを熟知しドイツ語堪能だった後藤修一君と一緒にベルリンに向かったのだが、撮影目的は、 黛敏郎先生による初演のオペラ『金閣寺』だった。
下記動画のご笑覧を。
後藤君が亡くなった時にアップロードしました。
11月10日に水木しげるが描いた後藤くんの漫画を持って彼の墓参で甲斐へ向かう。

 

 

淺岡敬史

 

 

高校生であった後藤君のイラストの詳細に釘付けになったのが、三島由紀夫だった。初演1969年(昭和44年)1月18日、劇団浪曼劇場第1回公演として紀伊國屋ホールで、後藤君の「注釈」により完璧な「我が友ヒットラー」が上演されたのである。


(蛇足の蛇足だが、お宝「平凡」を夏の仕事に持ってきたが、数冊下に普通に平積みしていたが、それに関心をもった世代バラバラの御仁が三名。手にとって丁寧にページをめくっていたのが、とても嬉しかった。何かを強烈に共有したのだろうか。彼らの仕草に体感したのは、肌に食い込んできた「禊ぎ」だった。)


令和四年十月一日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

官邸のお好きな場所

「最強安倍」時代に官邸で撮った。 平成23年のインド撮影でご一緒させて戴いたが、それ以来、何かの折にふれて昭恵夫人もふくめてお世話になった。「首相になったら靖国神社には詣でる。」と語っておられたが、国際政治の壁って我々が想像する以上にに厄介なのだろうな。「豊かな生活」から「よりより豊かな生活」を貪欲に求める国民を前に思想政治信条など邪魔なのかも知れない。

「この部屋では歴代総理の視線が感じられるので、身が引き締まる。」

その声は、もう聞くことは出来ない。

 

 

柔らかい笑顔を戴いた。
いつだったか、「政治家としてはリスクがあるのですが・・・・・」と前置きして憲政記念館で三島由紀夫の辞世の句を詠んだことが今思えば、極微の感情だったのだろうか。

淺岡敬史

 

「アショカ王の治世からマハトマ・ガンジーの不服従運動に至るまで、日本人はインドの精神史に、寛容の心が脈々と流れているのを知っています。」
平成19年の訪印時、インドの国会で演説した安倍さんの思い・・・・・ガンジー記念館でも熱く語っておりました。まるでガイドのように櫻井よしこさんを案内しておりました。

淺岡敬史

 

インドで誕生日を迎えた安倍さん。小さなケーキでささやかな誕生パーティーです。
銃撃した男を恨んでも事は始まらないだろう。「反安倍」なるボーした空気がうっそうと佇んでいるのが気になる。
「個人情報」には神経質だが、今回の警備手薄と国防が妙にリンクしているな。

 

宮崎先輩の言葉を借りるなら「奈良の北辺で撃たれ、橿原に没したのである。ここは神武肇国の土地であり、英雄の陵(みささぎ)が造成されている。わがくにの肇国の魂が呼んだのである。」だ。

 

彫像のように動かないお人になっちゃった。
否、死して生きるのである。


令和四年七月八日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

「戦友」を思う

思えば、「FOCUS」時代は戦場のようだった。被写体にとっては僕のカメラは、まさに武器だったのだろう。200万部突破という空前の売り上げも凄いが、社会現象にもなった。発売日である木曜日の電車内は、現在のスマホのように手にするのは、「FOCUS」だった。逃げ回る権威、権力を狙い打ち、狙い撮りしていたのが、読者の好奇心を煽ったのだろう。
今も盛大に語りたい「武勇伝」の数々・・・・・

 

そんな時代の「戦友」が、何事もなかったように誌面になっていた。でも今回の主役はお料理研究家の オクサン だ。彼女とは「戦友」と真逆のスタンスでヨーロッパで仕事をし、スキー仲間でもあった。
過去をよびもどすようなU夫妻。元気そうな姿が、何よりだな。


令和四年六月十五日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

「いただきます」「ごちそうさま」

撮影用に、お腹がふっくらとした鮎を五尾戴いた。 串を抜き、頭かたムシャムシャ喰った。いわゆる「子持ち鮎」で海の魚卵とは違いあっさりしていたが、山、川の恵みなのか独特の重量感があった。

曲線がうつくしい肢体。炭火焼きには苦労したな。

あらためて写真を眺めていると、我らはかなり残酷であるなぁ、と実感。

ただ鮎殿も川の虫や諸々を無遠慮に喰ってるのだし「聖なる循環・輪廻」ということで、ま、いっか。

少しでもやさしい色彩にと、乾燥パセリを振った。

 

朝焼け小焼だ、大漁だ 大羽鰮(おおばいわし)の 大漁だ。

浜は祭りの ようだけど、

海のなかでは 何万の、 鰮(いわし)のとむらい するだろう。

 

或る詩人が、死命を制するようにつづった喜びと悲しみ。

世の中のすべては表裏一体との結論で、気合いを入れつつ6月を迎えた。
「いただきます」「ごちそうさま」という当たり前が、意味深くさせた子持ち鮎」だった。

 


令和四年六月一日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

うつくしい二律背反

三十年来の某氏(僕は「銀輪伏」と呼んでいる)が、「北の国から」を追って自転車旅行。テレビドラマは見てないが、ロケ現場からはぼんやりと物語が想像できる。そのドラマの概要をWikipediaで見ると、膨大なその情報量に圧倒された。掲載写真は、氏のブログから借用したが、この風景が妙に僕の若い頃の旅と重なった。

被写体はまったく違うけど、僕の旅と同じなんだよね。 自分のなかの自家撞着としか結論だせないな。

よし、自分の矛盾に向き合うのではなく、さらに耽溺する覚悟を再確認しよう。

 

淺岡敬史

 

偉大な肉ジャガ論争

詳細はさておき、その彼のご縁で「肉じゃが」と相成った。「東郷ビール」とモロ重なったのである。

「肉ジャガ」誕生のきっかけは東郷平八郎だったのだ。彼が英国留学中に食べたビーフシチューの味が忘れられず、帰国後の真鶴赴任中、軍艦の料理長に、「牛肉、ジャガイモ、ニンジンで同じ料理を作れ」と命じた。当時、ビーフシチューの味を口で伝えること自体が無理だよね。で、今の「肉じゃが」になったのです。本当に事実だよ。

今後は「肉じゃが」を戴く時は、一礼しましょう。

当然、真鶴市は「肉ジャガ」の発祥の地として観光目玉にしたが、クレームがついた。

「東郷さんは真鶴の前に呉に住んでおり、ここから肉ジャガが誕生したのです。許せない真鶴市。」と 広島県の呉市が噛みついた。

餃子日本一争いもあったが、ホンワカしたケンカではないか。

 

 

淺岡敬史

 

「不時」を思う

さらにさらに、彼のご縁で「不時」ということを教わった。 突然の来客にも慌てないでお茶を振る舞うことらしいが、屋根裏も一瞬にして茶室に早変わり。琉球畳が活躍していたが、撮影の小道具にもなることが分かった。

ま、茶の湯だけではなく、「不時」を戦時として捉えるのも役にたちそうな智慧かも。

重たい仕事がいくつか片付き、あちらが浅間南麓なら、こちらは北麓で「不時」をぼんやりと考えようかな。


令和四年五月十五日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

兜煮

馴染みの魚屋で、鯛のオカシラ。一般的には刺身中心なので、「頭」は「余りモノ」扱い。アイスキャンディ1コと同じ価値だ。

魚を喰うのには慣れているのか、小骨処理もきれいにこなせるのが自慢だ。

で、「余りモノ」で兜煮と相成った。日本酒たっぷりにグズグズと。 最後は熱湯を器に満たし、スープ処理。小骨にまとわりついた魚肉も豊かだ。某国では、ブイヤベースというらしいな。

端午の節句を祝った。

 

皐月といえばロシアのバルチック艦隊を撃滅し、戦艦三笠に将兵を集め「連合艦隊解散ノ辞」で述べた東郷平八郎の言葉で有名になった「古人曰く。勝っても兜の緒を締めよ。」。オフクロからよく云われていたのを思い出す。(勝ったことないけど・・・・・な)

ロシアに虐められていたフィンランドは、東郷平八郎に拍手喝采。で、「東郷ビール」が誕生。写真のラベルは復刻版で、当時と同じデザインなのが嬉しい。

淺岡敬史

 

健在 東郷ビール

フィンランドで120年前の歴史が、東郷ビールだった北欧の人々。「Savusuolaa 」というバーでも健在と知人からの一報だった。日本では復刻版は購入できるが、高い、高い。汗笑)


令和四年五月一日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

淺岡敬史

 

iChat

けっこう強引なお誘いがあってzoomなるものに参加したが、100人ちかくの顔がずらりには驚いた。ま、繁盛してる集会なのだろう。ホストのような人がいて、慣れたように発言者を決めて話題を振る。しゃべりたいことはたくさんあったが、敢えて控えめにしたせいか、ストレスが溜まったな。

 

みな、新しいネット上のシステムのように語るけど、何、Mac仲間では、20年以上前に「iCat」というビデオ・チャット遊びあったな。自慢のライム、ホワイトの iMacには、カメラを別個用意し「白雪姫」と名付けた iMacにチョコンと。なかには、カメラを数台用意してチャットする強者もいた。面白そうな人が入室したら、電話で仲間に参加を呼びかけたり楽しかった。

 

当然、テーマはない。こちらが呑りはじめると、参加者も張り合って見たこともないワインを抜栓する強者も・・・・・

zoom参加者は、みな真面目そうな方ばかりで、オイラだけが静止画を貼り付けていた。

zoomでも呑み会などあるだろうが、今は、ソロ呑りがいいな。

淺岡敬史

 

リテラシー

ある書家から教わったリテラシーというアプローチに興味津々。「適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」ということになるのだが、被写体にレンズを向ける時に、参考になるような気がするな。
いつも寄り添ってくれる大切なモノ、心のどこかに置き忘れてしまいそうモチーフなどなど。

夏に向けての、新しい課題かな。


令和四年四月十六日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

「 えっ 」と 一瞬固まった。

ちょいと来客があったのでサービス。

「えっ」と期待とおりの反応が、嬉しかった。

見た目は、タマゴサンドのオープン。恐る恐る口に運んだ客人が不思議そうに云った。

「これってタマネギですかぁ。」

タマゴで手をベチョベチョにしながら、3分ほどで皿に盛ったタマネギは彼の胃袋の奥へ消えていった。

そう、絶妙な甘みだったのだ。
ただ厄介なのは、これ1コで、不二家のイチゴがごっそり入ったショートケーキが買えるんだ。
ウーン、ウム、ウム。

 

令和四年三月二十九日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

澄込

先月、情けなくなった雪ダルマでウイスキーを割ったが、今回は、なんとシャンパーニュを道明寺でごっそり余った桜花を塩抜きして割ってみた。

 

1、目で琥珀色を愛でる。2、グラスの繊細なエングレービングに惚れ直す。3、優美に立ち上る泡の音を楽しむ。3、自信たっぷりに呑る。

 

かつて何度も原稿で書いた「僕の流儀」だが、今は同じような事は恥ずかしくて書けないな。そもそもシャンパーニュ自体と縁もかなり薄くなってるし、頑張りもきかなくなってきたしな。

ま、春めいてきており、澄込ということで・・・・・

 

動画 で見ると桜花で割った、というより小躍りしていた。

 

 

淺岡敬史

 

 

「お酢は尾道よ。」

酢飯をかき混ぜながら料理人が叫んだ。さらに「少塩多酢」と。手も動くが口がその数倍動くのが撮影していて楽しかった。

あとはたっぷりの錦糸タマゴとホタテ、イクラが・・・・・

酢のことなんか考えたことがなかったが、興味が出て調べてみた。あまりいい例えが見つからなかったのが面白かった。

 

酢がすぎる、酢でさいて飲む、酢につけ粉につけ、酢にも味噌にも、酢の蒟蒻、酢を買う、酢を乞うなどなど。

 

ま、「酸いも甘いも皆承知」ということで。

 

令和四年三月十八日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

大御所レーニン、如何にっっっ。

——— 路上でレーニンのバッチを売っていた少年の眼差しが複雑だ。背後の壁にはイコンが。「宗教はアヘン」とは共産主義の常套文句なんだけど。14時、トルストイの家。——— (1990.9.10)

取材ノートと自著をあらためて見返した。この少年は、現在のウクライナをどう思っているのだろうか。もしかして殺戮に加わっているのだろうか。

 

ソ連共産党でも手を出せなかったトルストイ。「逆境が人格を作る。」と彼は叫んだが、その思いを知りたい。
レーニンのバッチを手に取ったとき、クール宅急便で見たこともアイスバーが届いた。

複雑の思いで、喰った。

 

「私はウクライナの人々に「徹底抗戦しろ」とはとても言えない。そして「逃げろ」とも言えない。私ができることは、ウクライナの人々の決断を敬意をもって尊重し、彼らの無事を祈ることしかない。」

ある方のブログが、目にとまった。

 

令和四年三月六日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

愛媛 札所の流れ・・・・・

愛媛のタマネギ農家とご縁ができた。「血圧下がるよ。」とオフクロから30年ほど前から云われてたが、確かに沸点が低い僕には、タマネギが鎮静効果があるかも。浅間北麓の仲間から、タマネギの天ぷらを「恒常的」に戴いているのだが、さらにタメネギを極めたいこのごろだな。
で、雛さまに丸ごと献上した次第。なんとなく春めいており、スプーンとフォークでお上品に戴くのだ。

タマネギ推しの、この夏かな。

 

令和四年三月二日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

金持ちになりたい、時持ちの悶々

わずかに雪が積もったので、懸命に雪ダルマ。西の和尚は絶妙なコスメで仕上げしていたが、こちらはスッピンで勝負。春の雪が楽しみだな。よし、今度は厚化粧でいこう。

雪ダルマが溶けはじめ、首が落ちる瞬間を動画で撮ったが、ここは情けがだいせつだろう。

で、ウイスキーグラスにしずしずと・・・・・安酒だったが、おおいに化けた。

 

物欲はまだまだ衰えはしらず、諸般の事情で形がない「時」と向き合っているが、これがなかなか厄介でもある。

 

令和四年二月十六日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

方言と米

「はっつり」って、なんとなく「音」として伝わるが、あまり聞かない。で、方言かと思って検索したがヒットしない。真鶴出身の方の表現だったので、郷土博物館の館長さんに問い合わせたら、「・・・・・・・・・・」だった。

ま、いっか。炊きたてのご飯の「枕」として相応しい「音」でもあるのは確かだ。

 

親から教わった記憶はないが、米、一粒も粗末にしたことはないな。

しばらく稲作は外来人が入った弥生時代に「輸入」された、と教わったが、何、縄文時代からすでにあったのだ。

ま、そんなことは反論もあるだろうし無視しよう。

 

 

三十五年ほど前、ヴェルサイユで茶会を企画した折、ドイツから参加した女性から「米」に関して質問攻めにあったと後日知った。彼女はいわゆる「日本趣味」のようで、日本の「米」「作法」「流儀」を現在はドイツでいろいろ広報している、とのこと。それが乗じて、かのバーデンバーデンで日本雑貨の店を開業しいるとの一報が入った。

 

 

令和四年二月四日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

淺岡敬史

 

再び北斎肉筆画 疫病退治の図

節分をひかえた鬼の足なんだけど、炭火で焼いて山椒を振って喰ったら旨そう。コリコリした歯触りがよさそうだな。北斎翁に失礼かも知れないが、確かに旨そうだ。今年は豆ではなく餅をまく。

なんて思いながら免疫力を意識する昨今。ま、世間の風評は、ちょっと性格が悪い風邪なんだろうな。


夏ミカン、鏡餅から始まり、お寺がつづく。その延長だ 法隆寺金堂の模写師 になった。

流石の大御所。平べったい綴りが素敵だった。

 

 

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

またまた東西名刹から・・・・・

東の「生柚子」と西の「柚子ジャム」

どっちがいいのか分からないが、ありがたや、ありがたや。

 

令和四年二月一日

淺岡敬史

淺岡敬史

淺岡敬史

 

東西名刹、和尚の写真対決

編集の妙ってことかな。敢えて名を伏した他人さまの写真でも胸底打たれる作品は、舌から分厚い苔が落ちる思いだ、

グローブにガッチリ爪を食い込ませるミミズク。背後の不動明王と智慧を競い合っているような写真だ。

氷った蹲い(つくばい)にクチバシをあてるメジロなどなど・・・・・そのロケーションが羨ましいな。東の和尚さまの狙いは、いつもながら絶妙。


一方、コスメごっこを愉しむ不揃いの雪ダルマ。広大な庭の冬景色では、千両、万両などは文字通り千両役者、万両狂言師になるわけだが、今回はコスメの一翼を担った。

説法には充分な「不揃い」振りだ。

「翌日には溶けてなくなった。」

和尚からのメールの文面が、うつくしく思えたから不思議だった。

思えば西の和尚は、いつも笑顔いっぱいだった。

 

 

令和四年一月二四日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

はやくも福は内

出刃包丁でもノコギリでも動じることがない鏡餅の外皮。寺友の仏師のノミでもガンとして、その体型を崩さないのだ。で、きれいさっぱり還俗した旧坊さまのお知恵拝借となった。彼は京都の名刹で三百コほどの鏡餅と格闘していたのだ。

「餅の表面に水を少々。あとは五分ほどチン。ぬるま湯のなかで、指先で簡単に分けられる。」とのこと。確かに突き立ての餅になった。餅はつらつら眠っていたのではなく、火のでるような活動をしていたのだろうな。

 

揚げ餅を口のなかでコロコロさせながら、きな粉と黒蜜のハーモニーを頭に浮かべている。

チンする前に、その造形をかつての イガグリ 撮りと相成った。

屹立した仏塔のようだった。

節分前に「福は内」か。

 

 

令和四年一月二十日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

自家薬籠

そろそろ雪が欲しいな、と思っていたら降った。もちろん雪害で大変な方たちもいるが、ここは、ま、ご勘弁。ある人にとっては正義だが、ある人にとっては害になることはままあることだし・・・・・

雪ダルマと熱燗。

酔うとしゃべりが生きてくるのが楽しいが、雪ダルマも適度に反応してくれてるようだ。
屁理屈愛好家には止められない時間がはじまるのだが、英霊の前ではさすがに大人しくなる。

 

ある本で、「小さな暮らし」という世界を垣間見たが、ここ三十年の僕の暮らしぶりと重なった。

自家薬籠という便利な処方箋は、収入減の昨今にとっては、有り難い妙薬なのである。

ところで、虎と寅、龍と竜。

ま、いっか。

 

令和四年一月十一日

淺岡敬史

淺岡敬史

一器三様そして斜め立ち

原理原則もたいせつだが、その方程式から少し外れたところにあるのが「自在」ではないだろうか。

豚児のアメリカ時代に使っていた丼が割れたので金継ぎし、手火箸となった。で、餅、ホタルイカなども焼くのだ。鉄瓶で熱燗で呑ることもある。

そう、一器三様なのである。コーヒーカップ、独り膳、茶香炉、タートルネックセーター、茶巾などなど別の用途で活用がいろいろあるのだ。

 

元旦の朝六時。
窓を開けたら冷気に襲われたが、熱々の餅を喰いながら斜め立ちの月にレンズを向け初撮りとなった。

 

淺岡敬史

 

一心に剥いた

恒例の某茶室の庭に実る夏ミカン採りは、とりあえず五十コほど。寝かせて酸を抜き初夏に食べるのが普通らしいが、そこまで待てない。果皮はとても厚く薄皮(ジョウノウ膜というらしい)も分厚いので厄介である。

剥く、剥く、剥いた三が日だった。

 

で、今年はジュースにした。薄皮を剥かないでそのままジュースにした方が、酸味は強烈だが一気呑みをすると美味かったな。柑橘系の重量感ある酸味って不思議だった。牛乳で少し割ったら、なんとなく高級感が出た。黒蜜との相性もよかった。

庭には、まだ100コ以上はあり、小正月までは、皮剥きがつづきそうだ。

 

淺岡敬史

令和四年正月四日

 

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