明治

 

 

淺岡敬史

 

王様、音楽家、画家、小説家がうつくしく繋がった。

三十歳の誕生日にヴィスコンティの『ルードウィヒ/神々の黄昏』を観たが、その後もDVDなどで何回かは見返した。美の専制者、芸術至上主義であった結果、財政をボロボロにした若き王様の物語だ。ま、今でいうピンが外れた超平和主義者でもあった。
ノイシュヴァンシュタイン城をはじめ数々の名城を残したが、 ワーグナーへの溺愛は城どころではなかった。

 

今朝六時の本堂は、氷点下。読経というより自然説法そのものだ。身がひき締まる大晦日だな。

表題の「うつくしい繋がり」の説明は敢えてしないが、何、自分ひとりが実感、体感できればよいのだ。

明治中期、同時代を生きた四人の男たちを巡る終わりがないマジカル・ミステリアス ツアーなのである。

淺岡敬史

 

朝陽でうがい。

霜柱で土がいたるところで盛り上がっている。思い思いのその造形がおもしろく踏み場所を探しながら歩いた「音羽陸軍墓地」。大晦日といっても、来年の抱負や目標は何もない。いつもの早朝、その瞬間を実感しているだけかな。
澄んでいて、少しだけひめやかで、寡黙な場所だけに謙遜なのか自嘲なのか妄想なのか・・・・・
長く落ちた僕の影をぼんやりと撮った。極微の感情というのかな。

 

令和三年十二月三十一日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

奔放に歪むのだ。 欧米との違い ロイコペ学芸員 性差別

貴婦人のごとく、やんごとなき微笑をこぼすセーブル窯のティーカップ、凛々しい騎士のごとく威風堂々のマイセン窯のコーヒーポット、いつも涼し気なロイヤル・コペンハーゲン窯のキャセロール、祖母がいつも着ていた藍染と同じ柄のマックム窯の沈香壺などさまざまな表情で、みなしずしずと僕のカメラに収まった。

 

しかし、チョイと考えた。
僕らとヨーロッパの人々との器=道具観の違いである。器は僕らにとっては直接肌に触れるものである。例えば茶碗はその肌を愛でるかのように両手で触れ、直接、器にも唇をあてるといったように、食器は手で直接触れるものだがが、ヨーロッパの人々は器に触れることはほとんどあり得ない。紅茶やコーヒー椀には把手がついてあり、これは器の手触りを楽しむ発想ではない。ある人は彼らは単に猫舌で猫手?と一笑に伏していたが……どうだろうか。

 

ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館やセーブル陶磁器博物館の名器は、一様に絵画のように金彩などで装飾額を飾り窓をあけ、そのなかに当代きっての画家によって人物、動物、植物、風景 ———— 日本では絵付されない磁肌そのものを楽しむ思想がある ———— が描かれているのが圧倒的に多い。つまりヨーロッパにとっての器は、食器というより美術品を鑑賞する態度がゆえに、食する人との間にある距離が必要であったのではないだろうか。

ヨーロッパの対極にある器が、そう、千利休の理想とする茶碗を焼成した長次郎なのだ。

長次郎のように、ろくろを使わずすべて手びねりで造形し篦削り (いしべら)で側面を成形。その奔放に歪んだ器形、そこに描かれているのは、炎と鉄釉が創りだした沈黙の世界のはりつめたうつくしさなのである。

凛然として揺るがぬ美意識に生きた長次郎。

四五〇年前かぁ ・・・・・

 

 

広辞苑によれば、陶冶とは陶器を焼くことと鋳物を鋳る意味で、職人の神技を表現しているが、転じて、人間のもって生まれた性質を円満に発達させるという、ある老陶工の話を思いだした。

さすがに、もはや平伏したいような気持ちになったな。

 

あっ、学芸員、性差別は後日に・・・・・

 

淺岡敬史

 

バリバリ、心乱れて

今回200ページの企画からは真逆の茶碗群。外国人受けするのは一見して理解できる。「きれい寂び」という世界があるらしいが、どこか落ち着かない。初めて伺ったお宅で、こんな抹茶サービスをいただいたら動揺するだろうな。

生徒さんたちのお稽古にはもってこいかも・・・・・

 

令和三年十二月五日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

「影と陰」

18時30分に撮り、湯豆腐を喰いおわった20時前には煌々と輝いていた。

写真で見るとヘリコプターの軌跡が面白かったが、月蝕は肉眼では「陰」で写真では「影」だった。

うーん、どちらがいいのかな。

宇宙の広がりより、内へ内へと仕舞われる茶碗の中の広がりを見つめるほうが理解しやすいな。ある茶人の出版のため、茶碗の膨大な写真を選択しているが、 ナノテクノロジーを凌駕するほどに碗のなかは大宇宙なのである。

 

「無機的な、からっぽな、ユートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。 それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

ここ51年ほど、毎年11月25日に頭に浮かぶ一節だ。

 

「影と陰」かぁ。悶々と年内は引っ張りそうだな。

 

令和三年十一月二十五日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

今だからこそ「FOCUS」なのである

S潮社から企画(初代編集長 故・後藤章夫氏米寿記念)された出版に相乗り。

写真選びなど至難な作業の連続でとりあえず選んだが版元はなんと云うか。文字数は見開きで800字程度とのことだが、3000万字でも足りないよ。

僕のオチは英国磁器なんだけど、編集者はわからないだうな。

で、以下を編集者に送った。

出版前だけど、ま、いっか。 (著作権者は偉いのだっっっ)

*それにしても、当時の 雅子さまの結婚感(1986/40号)は、興味があらただった。

 淺岡敬史

 

「アサオカちゃん、媒体を勘違いしてるじゃねえか。それにしても、こんなドアップ、どうするんだよ。」
六つ切りに焼かれた四枚の密着写真を見ながらの後藤編集長だった。

「音羽方面の女性誌の仕事もしているようですから・・・・・」
某N編集者がそばで嘯いた。

 

「・・・・・ ・・・・・」
ただただ下を向くだけの僕。

 

瞬間、瞬間に生き、瞬き、瞬きの連続の裡に編集部で指示を飛ばしていた後藤編集長の直感の力を、今、綴りながら学んでいるのだ。笑みを刻んだ時のエクボが、とても可愛いいお人だった。

 

お妃候補のおの字もなかったころの雅子さまをご自宅で撮る好機を得た。田園双葉、東大、ハーバード大、外務省そして美人との事前取材でU記者から聞いていただけに、イメージは胡蝶蘭かランクが落ちても深紅バラのイメージだったが、お会いしていたら野の花のような素朴さを感じたのが第一印象の雅子さまだった。

 

懇意にしている京都在住の訳詞家、M女史がハーバード大で教壇に立っていたころ、雅子さまが創設した日本文化クラブを継承し折り紙、日本食の試食会などをご自宅で開いていたと昨年知ったが、雅子さまの思い願いは確実に継承されているのだ。継がれることの意味を識った。

 

今、顧見る。
雅子さまは、僕の時間軸からすると一瞬にして、皇太子妃、皇后になられた。
ある作家の言葉を借りるなら、「ズシリと重い血液」の御方が雅子さまなのかも知れない。
撮影を終え、帰り際に戴いた野の花をあしらった紅茶の器が気になった。
撮影の3週間前に英国のロイヤル アルバート窯で、同じ文様を描く絵付師の手許にレンズを向けていたのである。

 

 

「ワイダと玉三郎―ドストエフスキーもビックリの顔合わせ」
1987年11月27日号(46号)

 

「狭い楽屋ですが、お待ちいただけますかぁ。すぐ着替えます。」
風呂上がりに浴衣姿の玉さまと廊下ですれ違った。ぷーんと石鹸のよい香りが、彼の後をおうように通り過ぎたのを思い出す。

 

「後ろの照明が邪魔だな。撮り直しは無理かぁ。」

後藤編集長がなんとなくイラついていたのは、周囲の空気がビミョーに伝えてくれた。「後ろの照明」などどうでもよく、なにかの悶々を抱えているようだった。

 

「楽屋の雰囲気があって、いいんじゃないかな。」
いつものフォローしてくださったTデスク。

「・・・・・ ・・・・・」
ただただ下を向くだけの僕。

 

週刊誌史上初の200万部突破し、後藤編集長の両肩からムンムンと自信が立ち上り、記者に指示する指先一本一本も、火の出るような仕事をしているようだった後藤編集長の「イラつき」と「到達点」に興味を持った時だった。

編集部恒例のお正月行事は、後藤さんの家で迎えた。僕の好物の魚介をはじめて、見たこともないお料理がテーブルを占領していたが、最後に出された白ネギが踊っていた熱々の一口ウドンがツボにハマった。
一気に4杯、おかわりした。
「おい、アサオカちゃん、大丈夫かよ。」

僕にとっては、最後の言葉だった。

 

ご自宅で最後のサービスを頂戴したのが香り高いコーヒー。
器は、ミントン窯の野の花いっぱいのハドンホールだった。

 

令和三年十月三十一日

淺岡敬史

 

 

 

淺岡敬史

 

「落葉、その姿と形」

S社文芸部某編集者との電話でのやりとり。ここではS某としよう。

S某‥「過日の添付されてた写真ですが、落葉の写真集って見たことないです。狙い目ではないでしょうか。」

 

「枯葉と落葉はその姿形も違うし、落葉はそそるね。ただ浅間北麓では、ここ30年観てるけど、ほとんどの落葉には艶っぽさがないんだ。ここは日本列島すべての取材かな。」

 

S某‥「是非、是非。」

 

「落葉は堕葉かあ。ところで、取材費は。」

 

S某‥「・・・・・・・・・・」

 

「別に新幹線のグランクラスなんで求めないよ。メシだって牛丼、ウドン、枕だって民泊で充分だよ。」

 

S某‥「・・・・・・・・・・」

 

自費取材だからこそ、意義があるのかなぁ・・・・・
数日後、S某からある作家の七転八倒している言葉が送られてきた。嗚呼・・・・・

令和三年十月十九日

淺岡敬史

 

 

 

淺岡敬史

淺岡敬史

 

― 私のパリ、パリの私 ―

1978年、豚児が生まれて四ヵ月後だった。
故赤木曠児郎さんからご紹介戴いて荻須画伯のアトリエに向かった。GS、SS 、GS各誌の撮影であったが、考える余裕もなく、瞬きもせず夢中でシャッターを切ったのが昨日のようだ。

ちょうど「荻須高徳パリ在住50年記念回顧展」がパリ市主催で開催されておりご多忙な日々のなかであられたが、二十代の駆け出しカメラマンだった僕に対し、八十歳近い画伯にご丁寧に接していただいたのが、心からとても、とても痛み入った。 そんな画伯のお気持ちが、今の矜持なのである。当時から記事も書いていたのでメモをとっていたが、それが見つからないのだ。もう43年前のことだが、どこかに大切に仕舞っているのは間違いないのだが・・・・・。

荻須画伯の物腰をふくめ唇や指先の動きにいたるまで綴っていたのだが・・・・・無念の極みである。  
画伯にお会いしてから10年後、シャガールのアトリエがあるサン ポール ド ヴァンスへ向かっている時に、画伯の文化勲章受章のニュースを知った。
現在の身近な表現手法である YouTube を見られたら、どう思われるだろうか。
「こんな表し方が古色蒼然となるのも、意外と近い将来かな。」
幻聴だろうが、お声が聞こえた。

————— ごろり寝ころべば、北麓のそら ————— (けいし)

「生誕120年記念 荻須高徳展―私のパリ、パリの私―」
折しも、各美術館で巡回展が開催されている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・  
パリ在住の洋画家荻須高徳は、10月14日午前2時(日本時間同10時)パリ市18区の自宅近くのアトリアで制作中死去した。
享年84。
戦前・戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人であった荻須は、明治34(1901)年11月30日愛知県中島郡に生まれた。
愛知県第三中学校を卒業し、大正9年画家を志して上京、川端画学校で藤島武二の指導を受け、翌10年東京美術学校西洋画科に入学した。同期に小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らがいた。卒業の年の同15年、フランスから帰国中の佐伯祐三を山口長男と訪ね、佐伯に鼓舞されてフランス留学を決意し、同年山口とともに渡仏した。パリでは佐伯の側らで制作を進め、当初は画風の上で佐伯の強い影響を受けて出発した。 

しかし、昭和2年佐伯没後は、ユトリロの作品に強くひかれる。翌3年からはサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品を続け、同11年サロン・ドートンヌ会員となる。この間、同6年にパリのカティア・グラノワ画廊で個展を開催したのをはじめ、以後ジュネーヴ、ミラノなどでも個展を開いた。 
また、同11年作の「プラス・サンタンドレ」がフランス政府買上げとなり、翌12年のサロン・ドートンヌ出品作「街角」がパリ市買上げとなった。同14年第2次世界大戦勃発にともない翌年帰国し、新制作派協会会員に迎えられ、同年の第5回同協会展に滞欧作が特別陳列された。  
同17年には陸軍省嘱託として仏領インドシナなどに派遣される。同23年、日本人画家としては戦後はじめてフランスへ渡り、以後パリを中心に制作活動を展開、同26年、サロン・ド・メに招待出品したのをはじめ、サロン・ド・テュイルリやヨーロッパ各地での個展で制作発表を行う。 

パリの街角を独自の明快で骨太な筆触で描き続けた作品は、広くパリ市民にも愛された。同31年、フランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章を受章、同49年にはパリ市からメダイユ・ド・ヴェルメイユを受けた。同54年、パリ市主催でパリ在住50年記念回顧展が開催される。

また、松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力するなど、日仏文化交流にも尽した。 
一方、日本では同29年第5回毎日美術賞特別賞を受賞、同30年に神奈川県立近代美術館、翌年ブリヂストン美術館でそれぞれ回顧展が開催され、同37年には国際形象派結成に同人として参加した。また、同40年、17年ぶりに一時帰国した。同55年、東京新聞紙上に連載したパリ生活の回想をもとに『私のパリ、パリの私』を刊行、中日文化賞を受けた。翌56年、文化功労者に選任される。 

同58年、郷里の稲沢市に稲沢市荻須記念美術館が開館した。戦後の作品に「サン・マルタンの裏町、パリ」(同25年)、「路に面した家・パリ」(同30年)などがある。 
葬儀は10月17日モンマルトル墓地で執行され、画家のジャン・カルズー、アイスビリー、カシニョル、ワイスバッシュ、シャプランミディをはじめ、本野盛幸駐仏大使ら在パリ日本人会など三百人余が参列した。 
また、没後日本政府から文化勲章が追贈された。

 


出 典:『日本美術年鑑』昭和62・63年版(323頁)
 

令和三年十月八日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

喰らわんか 獰猛が風景になった。

 史実である秀吉による鳥取城の兵糧攻めはカニバリズム。その様子を連想させる大河ドラマ「黄金の日日 第25話 飢餓地獄」(1978年)の再放送を観た翌日、草津の陶芸家Yさんが来訪。アカヤマドリという恐ろしい造形のキノコで、パスタソースを作ってくれた。見た目も人を寄せ突かない「誇りと意地」が、ムンムンとしており 、兵糧攻めのなかでも口にするのは勇気がいるだろうな。

 

 それにしても今見ると、ロケ、セットなどかなりお粗末なドラマだが、城山三郎の筆致が15インチのモニタからはみ出しそうだった。
「ポルチーニに似た旨味がいいですよ。」と彼は静々と厨房に立った。

淺岡敬史

 赤ワインで煮込んだバター風味の傘は柔らかく、柄は程よく硬く歯切れが心地よい風格ある独特の旨味だった。ポルチーニとはイメージが違ったが、後日、東京のあるシェフ二人がアカヤマドリに興味津々でソースを持ち帰った。 とんでもない発想力から、発見(味)が生み出せるのだろうな。新しい献立が期待できそう。

 このキノコは栽培ができないので、マニアの間では高額でやり取りされるらしい。浅間北麓の某所では、「松茸も採れる。」ともYさんが豪語した。スープも地元で自ら採ったカヤタケ ショウゲンタケ ムラサキシメジだ。

 原初の味覚を学んだようだった。

淺岡敬史

 兵糧攻めはさておき、ガダルカナル、硫黄島、ルソン島などの戦争記録に触れるたびに思うのは、足下の食材の発見だ。そう、浅間北麓ではキノコなのである。もちろん素人が手を出したら危ないが、僕が 「草津の魯山人」と呼ぶ Yさんはキノコの極めつけの奥義を隠し持ったお人なのである。

 次回は、Yさんの器で戴きたい。

 

淺岡敬史

 

 十数年前にYさんから戴いたキノコ群。
  現在上映されているキノコのドキュメンタリー映画が面白そうだ。

 

令和三年九月二十七日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

湯豆腐ながれで・・・・・

一気にトンシャブと相成った。

昨日の残りで、ごった煮になった。

ここでの器は、やはりスヴェンさんだろうな。

 

 

濱田庄司の釉薬使いに憧れたはグスタフベルグ窯(スウェーデン)の陶工スヴェンさんにお会いしたのは、三十数年前だったろうか。小壷の蓋のかみ合わせが悪い作品を見て、編集者がそれとなくつぶやいたら、

「曲がって悪いか。」

と、一発。

まるで濱田庄司パクりの脅しだったな。

 

 

まだ初秋なのだけど、今は何がなんでも「春の雪」なのである。浅間北麓ではじめて迎えた氷点下18度の冬に熱々の素ウドンを盛り付けたのが、スヴェンさんの器だった。喰いのこったウドン一本の奥に見えたのが、「春の雪」なのであった。

 

令和三年九月三日

淺岡敬史

淺岡敬史

淺岡敬史

 

いきなりピンポン

野菜を買いに行く途中、道沿いに見事な向日葵群が・・・・・

で、その主であろう家でピンポン、ピンポンとやっちゃった。

「お好きなだけ、どうぞ。」

満面の笑みを刻んだのはお弁当屋さんの女将さんだった。久しぶりに居住まいを正すべきと思った瞬間だった。心打たれるとは、このことなんだろうな。

後日写真をお持ちしたら、またまたお花の数々を頂戴した。

黄、紫、白、赤の彩りが晩夏の我が家で、堂々の主役を張っているのだ。

自分の目の高さで見つめる向日葵の裏側の造形が、見事だった。

 

令和三年九月一日

淺岡敬史

淺岡敬史

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タンタン干し

三代目ポチが肉球を怪我したとき、散歩の時に包帯をしていた。それも面倒になりベランダに風で飛んできたタンタンを包帯代わりに利用してたな。また風が強い日など片方だけが道にもよく落ちていた。

タンタンを生かし、タンタンに生かされていた日々だった。

 

令和三年八月二十日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

逝くという事

毎夏、我がベランダで逝くカブトムシなどいるが、今年は不安定な飛び方をしていたオニヤンマが、掌で動かなくなった。 間近で見るオニヤンマの肢体の美しさには感じ入ったが、思わず擬人化したくもなった。
「勝ちたかった…悔しい」と金メダルを逸した空手の清水希容選手と重なったのだ。

負け姿と逝く形って、けっこう大切かもな。

 

淺岡敬史

 

四代目ポチが浅間北麓で逝った2013年8月10日。弔問に来たハチとチズの仕草が涙腺を崩壊させた。
そのハチは数年前、そしてチズは先日逝った。シッポを千切れんばかりに振って僕に向かってきたチズを思うと、「死」の意味が皮膚に食い込んでくるな。
ま、そう遠くはないであろう自分の「死」をぼんやり考えるのも、肴にもなり得るかも・・・・・
よし、今朝も呑ろう。こんな今も泣けてくるね。

 

令和三年八月十日

淺岡敬史

淺岡敬史

 

自画像

知人からのメールに添付されていた画像。まず、谷中安規・版画集の表紙。

シャガールとマチスの中間にあるような構図がツボにハマった。

つづいて「自画像(レコードによる独唱)」とのキャプションに大いに笑った。

これって、カラオケだよね。

 

じつは30数年前から、僕は独りカラオケしてる。 

独りで歌っていて、20分経ったころから空しくなってくるのがおかしかった。その虚しさって、気持ちの整理整頓なのかと最近思うことがある。とくにアルコールが定量間近に集約されてくる。

先日、浅間北麓の仲間と「早朝呑み」「早朝熱唱」をやっちゃった。

写真は公序良俗に反すると熟慮し不掲載だね。汗笑)

 

現在も我が家近くにある豊山中学を中退した谷中安規

彼が遊んだであろう中学隣りの境内で、よく自分の影を撮っているんだ。

 

 

淺岡敬史

 

自写像

若いころは撮るモノなかったので、自分の顔ばっか撮ってた。なんとなく落ち着きつつあった30代は、取材先で偶然写る自分の影を撮っていたな。ある雑誌で自分のシルエットがページに載ったので、気分も高揚し意図的に自分の影を強引に画面に入れ込んだら某編集者に嫌みを云われたことがあったが、影撮りは今でも続いている。 

僕にとっては、「写心伝心」「一撮一会」なのである。

 

令和三年七月十七日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

『まあだだよ』と谷中安規、そして『ノラや』

 今では考えられない時間が足りなかった43歳の誕生日に、黒澤作品に触れたくて映画館に向かった。おそらく後追い、追体験の確認が目的だったのだろうか。監督の特徴でもあった刺激的場面は一切ない。

 終始穏やかなトーンがとても印象的だったが、今の僕の心境は、『まあだだよ』そのものなのだ。

 

僕が編集しているちっちゃな会報誌に、以下のようなメールが届いた。

 

 —————— 充実した猫特集もたのしく拝読しました。「ノラや」久しぶりに読み直そうと思います。百閒が子どもに向けて書いた『お伽話集 王様の背中』の中の一遍「影法師」にも猫が出てきます。とても短くて他愛もないお話ですが、谷中安規の版画の大きな目の猫が印象的です。—————— 

 

番記1

はじめて知った版画家 谷中安規をとても知りたくなった。

 

番記2

映画のスチールより。犬が飼える集合住宅ということで僕が30数年住んでいた五番町12。戦災での掘っ立て小屋のヒャッケンさまが居た、否、鎮座なさっていたのである。

 

番記3

豚児が通っていた小学校でチラシを配るヒャッケンさま。

 

番記4

爆弾で家が燃えた時、真っ先に持ち出したのは師匠 漱石の書ではなかった。そう、「方丈記」だった。呑みかけの一升瓶もしっかり忘れなかった。四谷の土手から東京駅方面が焼夷弾で燃える炎を見て、まわりのパニックをよそに「銀座のネオンのようで絶景だと思った」と茶碗の酒を呑みながら語ったことは、「東京焼盡」に綴られていた。

 

番記なし

扨て、はて、今日は何をしようか。

我が家で最もうつくしい処に、「日々草はその根性に疑問がある。」と云う方に逆らい、その根性を植えようか。ま、意地と誇りも吹けば飛ぶようなものだが・・・・・

 

 

 

 

令和三年七月十五日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

ワケありライムと大切なCD

 来客時にはいつもライムを絞ってお出しするのだが、このご時勢のことで各人に絞って戴いた。失礼かなとチト心配したが、お三方、妙に嬉々としておられた。ついでに抜栓もお客まかせ。折り目正しい武漢疫病対策の始末なのである。

 

 クッションとしての緩衝材の素材が悪さしたのだろう。劣悪な石油製品の結果なのだろうか。30年振りにMP3化しようとCDケースを開けたら御覧の通り。中性洗剤で洗ったが、なかなか落ちない。

 どうしたものか。

淺岡敬史

 

淺岡敬史

天の川 関越道

 夏の仕事場で年に一度だけお会いする仲間たち。関越道を天の川に見立て、織女と牽牛(読みから、この漢字書けないなぁ)わかりやすく云えば 彦星と織姫のお話を思いつくままに実践したら、七夕飾りの扇つづりとノンアルコールの泡となった。

 「デュク・ドゥ・モンターニュ」が最適とベルギー大使館関係の方から薦められた。

 なるほど山公爵か。浅間北麓も公爵扱いになったのである、と妄想を愉しんだ。

 まだ呑んだことはないが、織姫さまがお気にいるかどうか。抜栓が待ち遠しい。

 

令和三年七月七日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

ヨーロッパ人の憧れと香木

 何度も何度も書き綴ったマイセン窯のこと。当時はまだ東ドイツの時代で入国するのも手間暇がかかった。観光ならまだしも、取材となると事前の段取りがたいへんだったな。

 マイセン窯の前に儀礼的に訪れるべき「聖所」がある。そう、マイセン窯のパトロンであったアウグスト2世の居城、ツヴィンガー宮殿である。このとんでもない威容がドイツ・バロック様式と教わった。

 うーん、姫路城とかなり違うな・・・・・などなど困惑した記憶がある。

 

 

 17世紀のザクセン、いや全ヨーロッパにあって、日本の小さな磁器の皿一枚と精鋭の兵士数人と交換したという話は事実である。金、銀を上回る東洋からきた磁器と同じものがこの財政難で苦しむザクセンで作れたら、と思うのは人情である。で、アウグスト2世の大欲によって、ヨーロッパで初めて磁器焼成が成就したのである。マイセンの誕生だ。

 僕ら先人の遺風は、一つの茶碗の裡に宇宙を探しだしたが、彼は違うらしい。同じシノワズリでも、さすがにフランスはここまで狂いはしなかったがゲルマン民族はやってしまったのだ。

 

 一千点の古伊万里と、二百点の柿右衛門様式が倉庫に眠っていると思ったら、「装飾集合体」というらしいが沈香壷がごっそり、一気に展示されていた。

 

 『かしこなる陶物の間見たまひしや、東洋産の花瓶に知らぬ草木鳥獣など染めつけたるを、われに釈きあかさむ人おん身の外になし、いざ、といひて伴ひゆきぬ。こゝは四方の壁に造付けたる白石の棚に、代々の君が美術に志ありてあつめたまひぬる国々のおほ花瓶、かぞふる指いとなき迄並べたるが、乳の如き白き、瑠璃の如く碧き、さては五色まばゆき屬錦のいろなるなど、陰になりたる壁より浮きいでて美はし』

 

  ドイツに留学していた森鴎外がザクセン体験を書いた『文つかひ』の一説である。この体験はツヴィンガー宮殿でのことらしい。

 

 宮殿の庭に「カメリア・ジャポニカ 1738年日本からもたらされた」とある。柿右衛門を愛したアウグスト王が、その燃えるような赤を椿に求めたのだろう。雪で覆われた庭を白磁に、咲き乱れる椿を顔料にみたてるアウグスト王はヨーロッパで第一級の「数寄者」なのであったのかも知れない。

 

 宮殿に展示されていた染め付けの沈香壷は、ヨーロッパの王侯貴族に珍重された。アジアから輸入された香木の沈香を入れておくための壷で、客人が来たら、蓋をあけて壷と「香り」をひけらかすのである。 つまり権力者にとって「ズがタカい。ヒレふせ。」と相成るのである。

 よし、僕も。

 あるご縁があって、骨董屋さんで香木を手に入れた。たしかにほんのりといい香りだが、その造形に一目惚れ。日、時間によって、形が微妙に変化しているような幻視に近い錯覚が、これまたよいのである。洞窟のような凹みが、マジカル・ミステリアスでよいのだ。

移動式自前祭壇の強烈アイテムになったな。

信長と蘭麝待の関係を、チト考えた。

そうそう、香木にも鑑定士という職業があるらしい。会ってみたいな。

300年の時を超えて、アウグスト王に何かを託されているやも・・・・・との幻覚も・・・・・。

 

令和三年六月二十三日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

デルフトの憂鬱

 20世紀で最も独創的かつ巧妙な天才贋作者「ハン・ファン・メーヘレン」の伝記映画を観た。15インチの小さなモニターでも内容にガンガン引かれると、大スクリーンをも圧倒する。さすがにMacのスピーカでは侘しいので、外付けのスピーカが活躍する。

 監督はオランダのルドルフ・ヴァン・デン・ベルフ。先の映画『真珠の耳飾りの少女』のように自然光を中心にした色調・カメラワーク・フレーミングに息を飲む。退廃的で耽美的な流れは、正にフェルメールをも思わせる。まだ絵の具も乾ききっていないフェルメールの「エマオの食事」をゲーリングに売り渡すシーンには、手に汗にぎる緊張感だった。

 デルフト窯の写真探しから、全面展開へと広がっているここ2ヵ月だったな。

 

淺岡敬史

 

 写しも徹底するとオリジナルを超えることはあるだろう。やっと見つけたワンカットは、フェルメールの写しの小皿だが、「東洋への憧れ」である深い藍になると「デルフト・ブルー」となるのである。そういえば、加藤唐九郎を巻き込んだ永仁の壺事件。昭和35年に発覚した、古陶器の贋作事件であった。

 

 『ナチスの愛したフェルメール』はデルフトの憂鬱でもあるが、旅人にとってはうつくしい思い出となるのだな。小さな額に入れて持ち帰りたい街角とたくさん出くわした。

 少女が乳白色の釉薬にそろり、そろりと沈んでいく —————— レンズに向かってウインクしそうだった。

 

令和三年六月八日

淺岡敬史

 

 

 

 

淺岡敬史

 

「葉隠」と鍋島焼

 著名人の撮影はとても楽だ。貌がすでに見事に「造形化」されているので、ほんの数分でお仕事は終わるのである。やはり話を聞かせるお人だったな。

 「コロナ問題で、政府の対策を攻めテレビは視聴率戦争をしているのでしょうし、本来、公に意見を言うことは命がけでするものです。大塩平八郎が、自分の言ったことで引っ込みがつかなくなり乱を起こし破滅したように、オピニオンリーダーの発言には責任が伴うのです」

 まことに歯切れが気持ちよいのである。

 

 

 肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述した「葉隠」の漫画化は無理といわれていたが、黒鉄ヒロシの「葉隠」(中公文庫)は今でも版を重ねている。武士にとって暇な江戸時代。だからこそ文化創造の担い手となっていったのだろう。

 「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」といった山本常朝は、高齢で畳の上で死んだ。彼の「死」は、「生き抜く」ことなのであった。今、読み返すと「死」は「遊び」と置き換えてもいいかもな。「男の一人遊びはダンディズム」とある英国の学芸員がいっていたが、そのものだ。

 

 

 学生時代、あるタバコに夢中だった。そう「恩賜煙草」。園遊会の常連の方から毎年戴いていた天皇陛下から下賜される「恩賜煙草」だ。そのタバコと移動式自前の祭壇と遊ぶのに忙しかったのを思い出した。その話を知人に話したら、宮内庁御用達のトイレットペーパーを自慢されたな。一人遊び、つまり「おひとりさま」という世界は、精神粘膜が超敏感になるので、忙しいのである。ボケる暇がないのだ。

 

 肥前といえば有田・伊万里の磁器だ。収蔵品は日本よりロンドンのビクトリア&アルバート美術館が充実している。パリ万博の時、将軍家に張り合った薩摩藩がごっそり鍋島焼を出品し、英国人の目利きが丸ごと買い取ったのである。その技法は十四代今泉今右衛門家によって継がれている。

 「使い手と造り手の関係で美意識が高まるのです。」

 なるほど、十四代の柿の葉に隠れた「生き抜く」智慧と覚悟なのである。

 

令和三年五月二十三日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

窓越しの端午

格子窓に引かれるようになったのは、いつごろからだろうか。記憶がはっきりしているのは金沢・郭での撮影で、妙にツボにはいったのを覚えている。おそらく格子窓が不思議な結界に感じたのだろう。その窓のフレーミングは、写真でいうと構図にあたるのである。つまり窓越しの話になるのだ。

 

節句飾りの途中、チカッと妙案が閃いたような気がした。華麗なレトリックを妄想、つまりフォトレタッチなのであった。フランス映画はシーツの皺さえもアートに仕上げるが、和紙の切れっ端を利用してのフレーミングだ。

うん、なかなかよい。

不屈の図々しさが潜んでいるようなニャン公もおさまった。

幼い虚栄心はいまだに消えないが、その思いつきに興奮した。 

嗤うなら、嗤え。汗笑)

 

令和三年五月四日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

著作ということ・・・・・

写真の権利で生きていることは、他人さまの権利を尊重するのは当たり前というか義務だろう。

しかし権利、義務との間にあるモヤモヤしている×××が厄介なのである。だからこそ法律があるのだろうが、これも話し合いでも決着がつかないことが多々あるのも事実。

一応、国際的にも約束事があるが、有名無実なのが実態だ。歴史的にみても国連決議なんて、さらに怪しい。

 

———— 写真を参考にイラストを描きたいのですが、いかがでしょうか。——————

こんなメールが数年前にきたが、もちろん、「どうぞ、どうぞ。」だ。

「あのイラストはアンデルセンが描いたので、彼も喜んで快諾してくるれでしょう。」と返信した。

おなじような問い合わせが、年に2,3回はくる。

返信は、やはり非営利に限り二次創作物は、「どうぞ、どうぞ。」なのである。

 

 

淺岡敬史

 

手強し「帯」

この中公文庫シリーズ全6巻は絶版になって久しいが、ときどきAmazonのユーズドで買う。

本ではなく、この帯だけを褒めてくれたのは、オフクロだった。汗笑)

ま、オフクロにおいては、始終、僕は消耗しつつも森蘭丸を演じていた。

 

令和三年五月一日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

フェルメール ブルーよりデルフト ブルー

久しぶりにデルフト窯の写真探し。
オランダの写真もデジタル化しDVDに保存していたが、そのDVDがまったくMacにマウントされない。知人友人のWinパソコンでも反応なしだった。使用媒体は文章中心なので著作からの複写で事は済んだ。

愛好家のなかでデルフト ブルーと呼ばれる染め付陶器は世界的にも人気があるが、フェルメール ブルーには叶わないだろうよ。フェルメールは生まれ故郷のデルフトであの少女の絵を描いた。

現物を見に美術館にいったら、二時間待ち。

で、そく少女をスルーして隣の動物園のゴリラに会いに行った。なんでも入場者100万人を越えた日本公開だったらしい。

 

 

 

淺岡敬史

 

映画『真珠の耳飾りの少女』

こちらのDVDは健在だった。ふたたび観た。自然光のみで撮り、モノクロームのような色使いがうつくしいと再認識した。成金国家であったオランダの豊かな家庭環境にあったフェルメールと「召使い」の少女とのやりとりが事実のように描かれているが・・・・・。

映画では意地悪なフェルメールの娘に実家から持ってきた大切なデルフトタイルを壊されたり、醜悪なパトロンの家に飾ってあったデルフト窯の沈香壷など印象的な場面が数々。

 

この時代、多少の年代の差はあるが日本では小堀遠州、俵屋宗達、本阿弥光悦、野々村仁清らが活躍していた。今思えば、絵画もふくめ文化の継承、再創造のなんたるかを示唆するような少女像人気でもあったわけだ。

 

 

オランダには何度か撮影に行っているが、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』しか興味がなかった。白い頭巾をかぶったデップリとした「女」もいいが、関心は彼女が手に持つその朽ちかけた器をマクロ撮影することにあった。アムステルダムの国立美術館の学芸員が何故、少女像に無関心なのか不思議がっていたのを覚えている。

それにして、あの少女はどうしてターバンを巻いていたのだろうか。

そのわけを検索しても、まったくヒットしない。

 

令和三年四月二十二日

淺岡敬史

 

 

 

淺岡敬史

 

手だって欺く

上手下手、手続き、手順、手配、手落ちに手ぬかり、手違いさらに手くばり、手なれ、そして手腕に手当。もっと挙げれば読み手に聞き手、書き手、騎り手、造り手と日本語には手に因む言葉は大変な数になる。つまり機械と違い人間の手は、いつも直接に心のありようと繋がっている証しでもある・・・・・と、かつて何度も原稿に綴った。

「明日の世紀は、手の世紀となるだろう」「手で考える」と手を表現したランボーだが、僕もいつからか職人たちの手に集中的にレンズを向けていたな。

口、目さらに涙だって人を欺くが、手は正直でもあると念に念を重ねた。

土まみれの陶工の手、磁器小像を焼成する繊細な手は、信仰に近い被写体でもあったのだ。

 

で、我が「手」はいかに。

うむ、自分を欺いているな。

幸福度の沸点を下げる、つまりハードルを地下に潜らせるほどの決意があれば、我が「手」は正直になるのかもな。ここは朝陽から セロトニン の力を借りて「おひとりさま耽溺」という業を思案してみよう。

今は、虚実のはざまか。

うーん、自分軸の構築かぁ。

令和三年四月十日

淺岡敬史

 

沢木瑠璃

 

黒衣聖母と進駐軍

ハラリ、ハラリと落ちる芥川龍之介、黒衣聖母の綴り経本 ・・・・・ あたりを圧した 朗読 だった。

会場となった岩崎博物館付属ゲーテ座は、日本で初めて『ハムレット』を上映した劇場で、芥川や北村透谷も通ったと解説書にあった。それにしても聖母の台座に刻印された文言だ。

 

aDESIRE FATA DEUM LECTI SPERARE PRECANDO…

(汝の祈祷、神々の定めたもうところを動かすべしと望むなかれ)

淺岡敬史

で、で、会場近くの横浜グランドホテルなのである。進駐軍御大将の手垢の確認だ。「ぎぶ みー ちょこれぃと」の卑しさは今の僕にもあるが、東京裁判の落とし前をキッチリ欲しいところだ。

 

 “Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.”

御大将が昭和26年(1951)5月3日に、アメリカ上院軍事・外交合同委員会で公文書として保管されている証言だ。聖書に手をおき宣誓した御大将は敬虔なクリスチャンであった。

「神々の定めたもうところ・・・・・」

うん、黒衣観音の魔術、かなりビミョーなのである。

 

じつは朗読と同じく関心があったのは「マックイーン呑み」のやり直しにあったのだ。「マックイーン呑み」とは60年前あたりに流行ったテレビドラマの『拳銃無宿』で主人公を演じたスティーブ・マックイーンがバーカウンターでバーボンを一気にあおり立ち去るカウボーイの「流儀」なのだ。函館から上京した僕の目的のひとつが、横浜グランドホテルのバーでの「マックイーン呑み」だった。

18歳の少年には無理があった。むせて咳き込んだ僕を見て、バーテンダーは黒衣観音のような冷ややかな笑み浮かべたのだった。とうぜんだろうが52年前のバーの面影はなく、デパートのように混んでいたので、「マックイーン呑み」もどこかに消えちゃった横浜だった。

 

令和三年四月一日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

花泥棒と110番通報

境内にあるつばきを早朝に「盗んだ」ら、通りがかった女性から110番通報された。

「お寺の花を採ってる人がいる。至急、来て欲しい ——— 云々 ——— 」だけで終わらず、長々と話している。

「すぐそばに交番があるので、行きましょうよ。」

と思わず云ったら、一瞬キョトンとして、ふたりで交番へ。毎朝会うお巡りさんが不思議そうな顔で彼女の抗議を聞いていたが、ほそ面に背筋がきれいな婦警さんが彼女にいろいろ質問して、事はおわった。

「お寺の許可はもらってますけど。」と云えばいいものを、110番の顛末に週刊誌的興味で流れに素直にしたがったのだ。知人の警察官に聞いたら、「マニアによる一方通行のおしゃべり」は、ストレスの原因になるらしい。

 

つばきは、がく片、花托あたりの手触り感も楽しんでいる。で、よく、ポロッととれたりもする。

 

自分の原則を他人から少しでも外されると小さなパニックを起こす人が時々いるが、お互い同じスタンスだったらケンカになるのだろうな。戦争も同じメカニズムのような気がするけど。

 

白椿の花言葉は「完全なる美しさ」「至上の愛らしさ」らしいが、花だから許されるのだろうよ。

 

令和三年三月十八日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

クレヨンを探すんだ。

もう10年だ。

東京でブルゴーニュのワインを試飲しつつ撮影していた時だった。
揺れに揺れた。

ロブマイヤーの高級クリスタルの輝きが、歪んだのを覚えている。テレビニュースを見ても理解が追いつかなかったのが事実だった。

 

 

2011 311 1426 から花咲くころ、どこまでも優美なクリスタルの撮影はつづいていたが、花巻に飛んだ。
桜、満開。水仙が咲き乱れる「遠野物語」の天国のような世界を眺めつつ車で少し下ると、そこは地獄だったのだ。
地震、津波、大火災と三重苦の大槌町。自動車さえ溶けていたのに「クレヨンを探す」というお孫さんと一緒のおばあちゃんと出会った。なにがなんでも、クレヨンなのである。

支援物資なのか、お孫さんは真新しいキティブランドですっぽり覆われていたが、現場との対比が痛々しさをさらに増しましていた。

 

 

ポートレート撮影のポイントは、瞳に映るキャッチライト。東京に戻って大伸ばしたモニタに映った少女の瞳を見て、はっと眼が座った。映っていたのは、憎いほどの青空と地獄そのものだった。

ロブマイヤーの優美な光沢と少女の瞳が重なった。

この強烈に相反するふたつの映像は、僕のなかでは自家撞着ではあるだろうが、統一された「事実・真実」なのである。

皮膜のような岩盤に乗かった日本列島の善悪、醜美そして天国と地獄かぁ。

泥のように酔っても、記憶の風化は、断じてない。

 

仮設トイレのとんでもない状態を目の当たりにして、はじめて被災者の方々の現実に触れた衝撃だった。

淺岡敬史

 

強風の中、けっこう危険な状態だったが、車から降りて消防車をしばらく見つめていた櫻井よしこ氏。

果敢な取材姿勢は、ある美しさをも伴いつつ一刀両断の論説の訴求力が証明しているが、世間さまは、冷たい視線を浴びせているのも事実。部分的ではあるが、僕は断固櫻井よしこ氏を支持する。

 

繰り返し放映される津波のあのシーン、今見ても映画のワンシーンに思えるのが辛い。

所詮、他人事なのだろうか。

 

 

 

淺岡敬史

 

Fukushima 50

 

福島第一原発に掲げられた寄せ書きに涙した。

カメラマンはその視点に客観性を失ったらダメと云われているが・・・・・

なに、客観性を高らかにうたうニュース写真も時間軸によっては、平気で大ウソをつくのであるのだよ。

 

「フクシマのサムライたち」と世界が報じたが映画になった。

『Fukushima 50』

新左翼の間でカリスマ的存在であった糸井重里氏さえも「約2時間ぼくは泣きっぱなしだった。」とツイートしていたが、原作者が気にくわないのか、

「作業員らの決死の行動がまるで戦時中の特攻隊を彷彿させることは疑問。」

「戦後日本への道をなぞり、迷いなく美化するような展開に呆然とした」

「この作品は検証や哀悼や連帯ではなく、動揺や怒りや対立を呼びおこす」

「自然を甘く見ていたというだけの結論。何を隠蔽したいのか。若松監督、承知の上の仕事か」

などなどと、映画批評家がつづくのだ。

ま、いっか。

僕も泣いたよ。

淺岡敬史

 

「恭子、生きろというのか」

エンケンさん、東日本大震災の実話に基づくドラマは胸底に響きました。

寒い海上で救助されるまでの三日間、実際のニュース映像を交えながらの「星影のワルツ」、素晴らしい演技でした。

我ながら満足したワンショット。(マネージャーさんの物腰、感じ入りました。)

公開させていただきます。

 

令和三年三月十一日

淺岡敬史

 

 

 

 

淺岡敬史

我が愛と性を語る・・・・・

2週間の生活環境を確認し合い、いざ、呑みつつ語ろう、と相成った。
北斎の肉筆、弘法大師疫病退治図からはじまり、ワンテーマは約20分あたりだったろうか。35年ほど前は、全会話を録画し「ビデオ交遊録」 なるモノをつくっていたが、久しぶりに撮った。今はビデオ、ムービーではなく「動画」と日本語表現になるのも不思議だな。

話は「魚とは語ったことがない。」という京都の和尚の話から、アッシジのサンフランチェスコ、その弟子のクララ、そして良寛とその弟子と。つまり師弟愛は恋愛に飛ぶか、という俗の集約に始終した。

淺岡敬史

 

2年ほど前のことだ。東海北陸自動車道で天生峠を下った飛驒の山奥で、お地蔵さん、墓石が円陣をくんでハンカチ取りをやっていた。

この写真をあらためて見て、思わず片道3000歩。

墓に参じ献杯した。

 

淺岡敬史

淺岡敬史

 

「俗」

「えっ、八十四刷。印税は誰がもらってるの。」

S潮社の編集者に向かって思わず興奮したガチガチのクリスチャン氏。そう、鏡花さまの「高野聖」だ。

文学とは縁遠い僕ではあるが、その「素材」にはいろいろ興味がある。飛驒深山天生峠でのできごとが物語のクライマックスだが、僕の興味は登場する坊さまが、なぜ真言密教なのか。またなぜ真言密教を否定した鎌倉仏教の曹洞宗総本山の永平寺に高野山から向かったのか、なのである。

 

鏡花さまの取材ノートらしきものを検索したが、いっこうにヒットしない。
で、「天生峠」なのである。この峠 、じつは「野麦峠」なのではないか、と編集氏はガンガン迫ってきたのである。ちょうど知人に映画「野麦峠」の関係者がいたので、話題は製糸工女など無原則に広がっていった。

 

「私は今こそ鏡花再評価の機運が起るべき時代だと信じている。そして、古めかしい新派劇の原作者としてのイメージが払拭された果てにあらはれる新らしい鏡花像は、次のようなものであることが望ましい。
すなはち、鏡花は明治以降今日にいたるまでの日本文学者のうち、まことに数少ない日本語(言霊)のミーディアムであって、彼の言語体験は、その教養や生活史や時代的制約をはるかにはみ出してゐた。(略)前衛的な超現実主義的な作品の先蹤であると共に、谷崎潤一郎の文学よりもさらに深遠なエロティシズムの劇的構造を持った、日本近代文学史上の群鶏の一鶴……」

三島せんせいの言葉で 「俗」の勘ぐりはやめにしよう。

なんとなくの仏教徒も、なんとなくお静まりになり、お開きに相成った。

 

令和三年三月五日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

白梅から桃の花へ。

「あら、おひなさまですね。」

一重咲きの桃の小枝をいただいた途中に、いつもの薬局へ某剤調達で立ち寄ったら、空世辞が上手い薬剤師が妙に快活いっぱいに明るい。

「ええ、三人官女マニアなんで・・・・・」
と、とぼけたら、真にうけられて困った。
で、そのバツを隠すべく、レッド オン レッドのノリで桃酒と相成った。

 

貝合せ。

ひな祭り道具のひとつに蛤。

僕はある代物弁済の流れで蛤の貝合風っぽいのがあるが、その意味にはとんでもないことが含まれているそうな。

ま、諸氏殿、検索あれ。

 

高望み礼讃。

中古本の漫画を買った。星空を見つめるワン公のお話。

つまり目の前のエサではなく、手に入らない世界を欲しがっているのだ。

高望みのワン公。

でも、その漫画家は、 人間さまにも持続的高望みを推薦しているから厄介だ。

「生きるって無駄だらけなんだ。」と、かなり暴力的言葉で締めていたが、正しいかも。

 

令和三年二月二十三日

淺岡敬史

 

 

 

 

今はただ、一心に皮をむいた。

「茶室前の夏みかんは、いまごろが食べごろなんです。」

自称「囲碁の達人」。花屋の丹那さんから、20コほどいただいた夏みかん。

ネットで調べると4月から5月ころが食べごろと書いているが、ここのは確かに今が「旬」。じっさい、10年以上前からいただいているのだが、節分あたりが食べごろなのである。

結局、50コ以上は喰ったが、木にはまだまだ・・・・・なのである。 早朝爺婆にお分けしようとしたが、口、鼻、目などすべてをゆがめてスッパイって感じでご辞退と相成った。

 

令和三年二月十八日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

英国の琳派

「製品には完全なアルコール消毒しております。」の但し書きが当世風で、なかなかの緊張感があった。その昔、現地で撮影の折には、保険会社の自賠責・物損事故保険カードを先方にアピールしていたのが懐かしい。

 

某名窯のカップ群だが、何故か金ピカでも落ち着きがあったな。微妙な浮き彫り具合が絶妙な陰翳をつくった。学芸員の説明では、やはり光悦、琳派に憧れていたデザイナーだったらしい。元禄真っ只中、蒔絵などにボテッとした金盛りが多いので、日本画というより油絵のノリだから、欧州人には入りやすいのかもしれない。

こんなカップで客人に普段顔でサービスしたら、威圧感あるだろうな。汗笑)

 

令和三年二月十日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

鬼が嫌う鰯と福が悦ぶ朱杯に白梅を浮かべて・・・・・

生臭さを嫌って鬼が寄りつかないらしい。で、白梅が浮かんだ朱杯には福が寄ってくると真顔での祖母だった。(なんとなく覚えているのだ。) でも鰯は今では背中が青い魚の代表で、刺身でもいける。栄養価はかなり高い。

ま、鰯の竜田揚げと朱杯があれば、鬼や福でもないだろう。

なるほど、梅一輪一輪ほどの暖かさ、か。

淺岡敬史

 

鬼は内。

撮影用のアラザンなどが余ったので、アイス、生クリームに振りかけた。
福豆とミスマッチだが、ま、いっか。この二つのカップはオペラ「魔笛」をモチーフとしているが、その三昔前あたりに「魔笛」、ウイーンのカフェなどに話題をふりつつ強引に売り込みを計った強烈営業用ツールでもあったのだ。
浮き彫りに造形されたソーサー、またカップが極薄のも魅力だ。

 

鬼婆、鬼嫁とは聞くが、鬼爺、鬼婿とはいわないな。

何故だろう。

曽我蕭白の鬼を描いたふすま絵を見たことがあるが、怖いというより愛嬌を感じたな。鬼婆、鬼嫁も視点を変えれば愛嬌を感じることもあり得そうだ。 ようは人の思い込みは怖いという事なんだろうな。もしかしたらSNSあたりが鬼そのものかも知れない。

仏典にも鬼を使った語彙がよく出てくるが、怖いのは、やはり生身の人間だろうよ。

鬼は人を食べたりしないが、人は人を喰うよな。

 

僕が生まれた年に公開された映画「羅生門」はアカデミー賞をはじめ世界の名だたる賞を獲得してる。何度も観てるが、「疑心暗鬼」とは何ぞや、と教わった。

鬼は身近にいたほうが、いろいろ勉強になりそうだ。

「鬼はぁ内っ」なのである。

 

令和三年二月二日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

一器三様。

「マイセンだろうが柿右衛門だろうが、使いこなすことが造り手への敬愛よ。」

柔らかい笑みを刻みながら、けっこう語気が強い お茶人、斎藤宗厚先生 の言葉は今も忘れない。
心持ちの変化をいつも促してくれるお人だった。 なかでも極めつけの発想が「一器三様」だ。食器棚をあけると無限に様変わりしそうな器たちが、こちらを一瞥してるではないか。

お汁粉、フルーツゼリーなど、いろいろ遊ばせていただいてるのだ。

なるほど、「器量」ということか。「名器の雑器化」と何度も語り原稿に書いていたが、使いきることが造り手だけではなく、自分への思いなのかもしれないな。
撫でるように確かめる食卓・・・・・いいなぁ。

 

令和三年一月二十七日

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

淺岡敬史

 

 

道端のペコちゃん。

銀座の一等地にあったペコちゃん本店が、ワケあって我が家近くに。
そう、あのTBSの捏造報道によって、経営が悪化したのだ。社員たちの無念さがよく理解できる。

洋菓子といえばショートケーキだ。小学生のころの舌の音色が不二家から始まったのを初めて知った。
買いに走った。

 

昔の仲間と「間合い宴会」がつづいている。ペコちゃんの福袋を何組か買っていたので、土産物に渡したら、子供たちに大ウケだったらしい。銀座の一等地ではないが、道端のペコちゃんは不滅なのである。

 

令和三年一月二十日

淺岡敬史

 

 

淺岡敬史

 

玉さまぁ ——

「狭い楽屋ですが、お待ちいただけますかぁ。すぐ着替えます。」

風呂上がりに浴衣姿の玉さまと廊下ですれ違ったのは、もうかなり前のことだ。ぷーんと石鹸のよい香りが、彼の後をおうように通り過ぎたのを思い出した。

僕の興味は反ソの姿勢を生涯崩さず「灰とダイヤモンド」や「地下水道」 で知られるポーランドを代表する映画監督、アンシエイ・ワイダ氏だった。監督はドストエフスキーの『白痴』に材をとった『ナスターシャ』を、坂東玉二郎を主役にすべく日本上演交渉のため来日。

「ナスターシヤの神秘性を演じきれる女優が欧米にはいなかった」 とワイダ氏。

 

「えっ、あれは男か。」と叫んだ。

彼は京都で玉三郎の「椿姫」の舞台(1979年)を見て確信したのである。

「玉さま」は、僕と同じ昭和25年生まれ。彼の笑顔、若かったなぁ。そして僕も若かったのだ。汗笑)

 

で、なぜ「玉さま」かとなるわけだが、大河ドラマでの「正親町天皇」役として出演しているからだ。なんでもテレビドラマは初という。主人公の光秀とのやりとりに興味があった。

優美で、マジカルでミステリアスな坂東玉三郎 ———か 。視聴者から「神キャスティング」との声も上がっているようだ。なるほど。

戦が日常だった時代、どんな大名も常に自己矛盾、自己否定の連鎖にあって、そんな世の中での正親町天皇のお気持ちや如何に、である。

 

それにしても光秀の「天がしもしる」 なのだ。

「天がしもしる」の根本のコトバは『古事記』にある歴代天皇の「天の下治らしめしき」だ。明らかに天皇親政への回帰を唱ったのが光秀の発句なのである。

「本能寺の変」は義挙だった、との先輩の意見を熱烈に支持したい。

 

令和三年一月八日

淺岡敬史

 

<秀明さん>
 

 

林住期

寺友の秀明さんは、ごくごく普通のお勤めの方だが、仏教はハンパじゃない。
学生時代の登山部で度胸を我がものに。真冬のオホーツクの流氷から滑落して海に ———— という経験などなどもあり、現在は母校登山部の監督でもある。とても残念ながら裸体はお披露目いただいていないが、おそらく金剛力士像ばりの筋骨隆々かも知れないな。

彼は公私が統一された肉体派の仏教徒だ。

 

お経も漢語、梵語ではなく、パーリ語なのである。「南伝上座部仏教」云々の経典で使用される言語だが、ま、そのあたりは難解なのでスルーしよう。

正月元旦六時から鐘つきを撮った。昨年だったら除夜の鐘の流れで境内はこの時間でも賑やかだが、さすがに今年は誰一人いなかった。

 

 

彼から年賀状を手渡しでいただいたが、林住期 との覚悟も書かれていた。聞くと、400坪の竹林をすでに確保しており、自力で御行屋を建てるという。

設計・図面はもちろん「方丈庵」そのものなのだ。

 

淺岡敬史

 

 

仏印、どちらの牛が幸せか。

——— 夏といってもさすがにアルプスの麓とあって、ちりりとした風が冷たく、カラン、カランとカウベルの澄んだ音とゆったりと牧草を食む牛たち。———とかつて書いたことがあった。隣の編集者は「こんな環境で育って幸せそう。」と目を細めていた。

 

でも天寿を全うできない動物は彼ら家畜たちだ。かたや道端でウロウロする薄汚れた印度の牛たち。

さてさて、僕が牛だったら、どちらを選ぶだろうか。

 

令和三年正月元旦

淺岡敬史

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