浅間山の我が家の定番となった草津杜氏の仕込みは、皮膚に食い込んでくるような味でした。果実酒という魔物は、甘酸っぱくも痛切な感傷に走らせる悪癖もあるようです。

 ただそこに四季折々の雑木林が広がっているだけで、その悪癖とお付き合いしているだけなのですが‥‥‥

 枳殻(からたち)、五味子、ザクロ、サルナシなどが詰まった我が酒瓶はさながら果実園であります。

 

 

 



 11月半ばの浅間山麓は氷点下になります。寒さに、ふとある気高さを感じました。ベランダに出しっぱなしにしていたバーボンのボトルが凍り、割れていました。青白く光る氷塊は、だらけたり、ほころびたりした僕の躯を一滴の清水のようにひきしめて洗ってくれるようでした。

 アセビという植物に出会いました。あたりは枯れ果てているのに、緑をたたえているのです。
  針葉樹は冬でも枯れないため生命力の代名詞となって北欧諸国で大切にされていますが、アセビの瑞々しい緑もじつに気高く思いました。ネットで調べると有毒植物とあり馬が葉を食べれば苦しむということから馬酔木(アセビ)となった所以らしいです。

 

 



 毒があるアセビの花はスズランによく似ているらしいですが、マイセンの「マルコリーニの花」はじつに幸せなチューリップであります。そのわけは、発売から1週間で完売‥‥‥羨ましい限りです。

平成一九年十一月三十


 


 幼少のころ、琺瑯といえば写真現像時のバット、病院のクレゾールが沁みた洗面器、駅や停留所にある妙に白が目立った胆壺でした。ガラス質でコーティングされているので、衛生具として便利だったのでしょうが、どちらかといえば日陰の存在でした。

 ロンドンのチャーチ・ファームハウス博物館を思い出しました。この博物館は18世紀後半から20世紀半ばまでの家庭生活用具を蒐集しており、興味があったのはキッチン用品。年月を感じさせない美しいフォルムの琺瑯鍋やケトルが清澄な輝きを放っていたのです。
  そう、琺瑯が主役だったのです。

 婦人誌を中心として広がった雑貨ブームはおそらくロンドン発と思いますが、いかがでしょうか。そのブームでステンレスと差別化され琺瑯が見直されてきたようです。
 ちなみに我が家も写真のような琺瑯鍋やミルクパン、ケトルを愛用しております。琺瑯ではありませんが、ガラスのちっちゃな醤油差しも気に入ってます。

 
 

 



 キッチンといえば、僕の祖母が自慢だったのが天火のあるオーブンでした。祖母はよくクッキーを焼いてくれましたが、彼女が綴ったレシピは僕のお宝でもあります。おそらく100年以上前に書いたものですね。

  「ライスコロッケ」、うーん魅力的ですな。晩年は経済事情が悪くなったようで、僕が泊まりに行ってご馳走になる時は、いつも鼻の先っぽを赤くした馴染みの古道具屋さんがお金を持ってきてました。
一度指輪を売っている場面に出くわしたことがありましたが、無理して笑顔をつくっていたのが忘れられません。
 
  そうそう、おばあちゃんって、とても美人で素敵な女性でした。

 

 

 



 数年ぶりで訪れたポルトガルのアヴェイロ。駅を降り立ってさっそく目を奪われたのが染付けのアズレージョでした。
 この街は、内陸に大きく複雑にくい込んだ入り江が張り巡らしており運河には櫛の飾りを弓のように曲がった船先につけ、極彩色で化粧をしたモリセイロと呼ばれるゴンドラのような船が浮かび、対岸の家並は白、黄色、そしてピンクととてもカラフル。

 食事では胃袋まるごと奪われました。
  ニンニクと塩加減が絶妙の野菜スープが琺瑯鍋のままテーブルへ。「さぁ、好きなだけ喰え」とばかりにド迫力のサービスでした。

 
 

 



 息子が何故かご先祖さまに会いたい、とのことで墓参。父は14年前からここに眠っておりますが、写真機の石彫が「供養」されていました。

  写真好きだった父のために友人が制作してくれたことは有り難いことですが、うーん、ちょっと浮いて見栄えがしません。
  質感など墓石と馴染むよう思案しているところです。急拵えっぽブロック塀も何とかしなければいけません。

 
 

 平成一九年十月三一


 

 


 ───中秋 一五の夜───

 僕が18歳の時、世の中がテレビ中継に釘付けになった瞬間がありました。月面着陸です。当時のアメリカはベトナム戦争の最中でしたが、他国だけに飽きたらず強引に月に行ってしまいました。

 「ああ、これで月でウサギが餅つきしているのが大嘘だとバレた。詩人、歌人たちはそのモチーフを失った。」と思いました。

 今も宇宙は心の裡に在るものだと信じています。ちなみに「ワープする宇宙」読破しましたが、翻訳者の感性の問題なのか理解できませんでした。

 この数式を置き換えると「色即是空 空即是色」となるのでしょうか。それより遙か前、火焔土器を焼成していた縄文人は異次元の存在を肌をとうして知っていたような気がします。

 著者のリサ・ランドールと茂木健一郎の対談をテレビで見ましたが、茂木さんのコメントのほうが5次元を多く語ってました。その人柄自体に華(美貌)があるリサ・ランドールは、流行りの人と感じました。

 茂木さんと言えば、某局の特番で尾崎豊をベタ誉め。「彼の歌は文学でもある。」と目を細めてしずしずと語っておりました。
「十五の夜」は「七十、八十の夜でもある」と話すあたりは、さすが小林秀雄賞の面目躍如。

 
 

 25日(旧暦8月15日 中秋の名月)は、窓越しに月。雲多く風も強かったため、秒刻みで月は見え隠れます。300ミリの長玉でファインダーを覗くと、雲の形相は鬼のようでした。

 鬼といえば散歩で出会い、必ず我がワン公を威嚇する黒ネコ。百戦錬磨を象徴するごとくちぎれた左耳と額の無数の傷。その全体と細部は、鬼の意地と誇りで満ちていたようです。



 在京絵付師たちの作品を撮影。写真を生かすのはレイアウトの妙と思います。写真データも素材のひとつに過ぎませんが、僕のMacクンは撮影にはない楽しさを与えてくれます。ただカメラマンにとって最重要な「現場力」の低下も否定できません。

 図版撮影は主観の差し込みは禁物なだけに後処理となるレイアウトは遊び心を少しだけ楽しめるのが嬉しいですね。

 
 

 



 
  後処理の最大の醍醐味は装丁をふくめたブックデザイン。装丁などは本来独立したジャンルですが、それらの表現欲は撮影と同じです。
 
  今回は和風造形師、S氏のためのポストカードブックに挑戦しました。わずか12ページの作品集ですが、僕にとっても作品にもなりました。刷り上がりが楽しみです。

平成一九年九月三十


 


 ───皆既月食の妙───

 六年ぶりの隠れんぼ大会は関東では不発に終わったようです。
 しかし雲の切れ目にチャンスを逃さなかった名人もおりました。

 そのころ僕は何をしていたのでしょうか。「陸別町 銀河の森天文台」の赤褐色の写真を見て、どっかで見かけ、しかもたらふく喰ったようなお月さん。

 そう、Yさん差し入れのイクラでした。

 山ほどいただいたイクラを解凍し、今日は我が家で三つ葉をまじえた溢れるほどの皆既月食。痛風どこふく風、ジンと相まって、濃厚な風が舞っておりました。

 狼男は満月で叫び、出奔した知人の猫はどこで何を思い、囁いているのでしょうか。
  ちなみに親戚のおじさん風の内田栄造の『ノラや』は旧我が家から1分のところで執筆。「隠れんぼ大会」が終わった22時ころ、お月見台の東南の空に青白い月が滲んでおりました。
 

 ノラや、ノラっ !!
 迷いとは、悦び、歓び、喜びの一変形と思うけど‥‥‥如何に。

 


 この夏はほとんど浅間山麓で暮らしていました。そろそろ9月。朝の外気は18度ほど。秋の気配さえ感じております。

 秋といえばドレスデンの金色に光ったプラタナスを思い出しますが、25年前の初秋に撮ったワンショットが機械式時計の広告として、蘇りました。
  僕にとっての玉手箱であるMacクン、大活躍でした。新たなモチーフにレンズを向けるのも、古い写真と対峙するのも同じレベルで仕事に向かっております。


 

 


 


 ドレスデンついでに。
 マイセンはドレスデンから車で20分ほど。某テレビ局のためのお仕事も、山荘でこなしました。僕らがライブラリと呼ぶストック・フォトはDVD化されているので、印刷用原稿の入稿も楽チン。

 簡略化された仕事のシステムに満足してますが、何故か時に追われる思いに襲われます。
 時間は売るほどあるはずですが‥‥‥


 


 


 簡略化といえば、郵送手段の発達も、きわめて仕事をシンプルにしています。新作の作品も東京から送られてきます。いやいや、生ライム、生牡蛎、馬刺だって注文から2、3日後には、山麓に届きます。

 現地の苗より丈夫で安いと先輩のOさんに教わりましたので、昨日は雪柳をネット通販で10株注文。腐葉土もあちこちに山をなしているし、植え込みは自分でやります。


 


 


 
 「売るほどある時間」のほとんどは、窓越しの雑木林を眺めております。先日は「チェ」そして昨日は蛍袋と呑っていました。
  黄昏がたなびくころは、美味くはないですが、ゆらめく自分の影を肴にしております。
 


 


 


 浅間山の溶岩を利用した盆栽。この作品は地元の知的障害者が制作しておりました。荒々しい溶岩のなかに、ほっとする優しく柔らかい表情のシダや紅葉たち。

  溶岩肌が苔でおおわれると、さらに美しい造形を見せるでしょう。彼らの作品をもっと知らしめたいです。


 

 平成一九年八月二八


 


 とっておきのホテル本に参画しました。
 表紙はプロヴァンスの旅籠。窓越しに、民家の営みが望め、朝食の支度なのか煙突からゆったりと煙りがのぼっていたのが、印象的でした。
 

 出版ビジネスの視点からいえば、今ごろ、この手の本は売れません。
  なのに出版したのにはワケがあったようです。某大手自動車メーカーが顧客へのロイヤルティとして、かなり買い取ったのです。

 で、出版社は赤字なし、という算術になります。これも助け合いの知恵でしょうね。
  僕も助けていただきました。

 

 



 

 絵付のH氏の来洞をいただきました。柿右衛門の赤を連想させる薔薇図のカップと彼のおばあちゃんのコレクションであった油壺をプレゼントされました。油壺はどうみても江戸後期から明治初期の錦手花絵伊万里。

 江戸時代どこの家にもいくつか転がっていた小壺ですが、浅間山麓の蛍袋の一輪がとても似合いそうです。
 彼とは二晩語り合いましたが、気になったのが質素な文字盤の腕時計。
 なるほど、 おじいちゃん形見のスイス時計でした。  

 雑木林の複雑な造形をした蔦を、しばし眺めていたH氏でした。

 


 


 


油壺といえば、僕が長年東京と浅間山で愛用しているコーヒーカップもイスラム寺院の油壺をデザインしたブルーフルーテッド。

 山荘の玄関には、「魔法のランプ(油壺)も装飾してます。

 アラブ諸国を訪れた時、「3度の願い」の戯言につられ骨董屋で発作的に求めました。



 


 イスラムといえば、東西文化の接点であるボスポラス海峡。
 22年前、我がオクサンとロンドンでランデブーした3日前に、トルコのキュタフィア・チニで購入したタイル絵が玄関前で日の目を見ました。

 図案はトプカプ宮殿・ハレムの壁画です。

 分割されていた陶片が我が家の地下で20年間昏睡しておりましたが、ある契機によって蘇った次第なのです。

 バラバラの28枚をひとつの絵にするのに、かなりの時間を費やしました。
  「開け、ゴマ !!。 帰れ、ゴマッッッッ !!」と念じつつ、見事ハレムが復権した次第です。

 

平成一九年七月三十

 


 

 山口大兄木肌花器を所望。
 無事、我が家に。
  
 昨日テレビでガウディのサグラダ・ファミリアの日本人石彫家が紹介されていました。彼とは25年ほどまえにバロセロナで知り合い、居酒屋で芝エビのフライをご馳走になったのを思い出しました。

 花器の陰影が、 バロセロナの天を突く鐘楼に見えました。


 


 

 陶芸家でもあり密かな杜氏を自認する大兄。今年はボージョレ村の樽をかかえての来訪。六合村の幻影酒が樽のなかで唸っているようでした。
  「早くグラスへ我が身を」と。

 軽妙な酸味とボージョレ村の香りも微妙に主張し、僕の分厚い舌の苔を落としてくれました。昨年仕込んだ枳殻(からたち)酒、五味子酒も、品格ある香りを放っております。

平成一九年六月六

 


 メルボルン

 3年ぶりの真夏のメルボルン。時差が1時間なので短期滞在は快適でした。四季も日本とおなじようにあるので、食材は思ったほど豊富です。
  今回は職人シリーズの庭師取材。英国式庭園が基本となってますが、南半球固有の不思議なウォールムバンクシア、燃えるようなドーソンリバーなど初めて知った植物で構成されているのが特徴でしょうか。
  自然美を強引に整形したヴェルサイユの庭よりは、英国式は自然が備えた不規則性を巧みに造形しているのが日本人にも好感を得るのでしょうか。

  食事も英国の伝統を継いでいますが、前回同様、頬張ったのがイクラでした。値段が安いこともあり、部屋の冷蔵庫にいつもキープしてました。

 それにしても「レッドキャビア」というネーミング。なにもそこまでキャビアに媚びなくてもいいのじゃないでしょうか。


飾り

 


 護国寺の写真


平成一九年一月元旦
飾り

 

 



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